自分を飼い慣らしてほしい人たち 他人を飼い慣らしたい人たち

とにかく悪いことはやっちゃダメ、「ダメなものはダメ」なのだ

という意味の発言がTwitterのタイムラインに流れてきた かなり読まれている発言らしい 原文ではこのあと「やってはダメなこと」が列挙されて 「最近、やってはダメなことを知らない人が増えてきた」という結論になる

かなり気持ち悪い発言である

自殺者の写真を面白がって撮影したりしてはいけない・・・ などという一見常識的にも思える言葉に並んで 愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」の出展物のものとおぼしき行為も「ダメ」なこととして さりげなく列挙されているのだ

つまり「ダメ」なことが 徹頭徹尾「個人的な好悪の基準」で判断されている 要はイデオロギー入っているということ 「ダメなことはダメなんだ」といえばなんでも言える たとえばちょっとフェティッシュな描写のあるマンガは「ダメなものだからダメ」である そうでなくても何でもこじつけて叩くことができる

まさに無敵の人といえよう

そういう人には興味がないので無視しつつ 逆になぜそういった人が共感を呼んだり興味を持たれたりするのか 考えてみたい

かえりみれば「ダメなものはダメ」という子どもに対してよく使われる言葉だった 幼稚であるため理屈を説明しても理解できない あるいはすぐに理解できないような子どもに対して 「分かっている」大人が絶対的な立場から禁止するために使うのが本来的であろう 

しかしながら、子どもはそれがなぜダメなのか理解できない だから、ダメだと言っている大人が正しいのかどうかも分からない 大人が絶対的に上から禁止するので子どもは従うだけ

そのうち子どもが成長して、なぜダメなのか分かってくることもあるだろう そしてそれが正しいと理解できるなら 良いシナリオであろう

しかし もう一つのパターン 悪いシナリオもある ダメな大人が自分がダメであることを隠して 「ダメなものはダメ」だと言って子どもを従わせる つまり他人を飼い慣らすために使う場合である

だから「ダメなものはダメ」という言葉を 子どもでもない大人が よく意味も考えずに納得するのは ひょっとすると誰かに自分を飼ってもらいたいという気持ちがあるのかもしれない

良いシナリオか 悪いシナリオか 見分けるためには それが明らかにダメだと分かっているのに その無敵のひとが「ダメなものはダメ」とは絶対に言わない物事人があるかどうかを見抜くことが ひとつのポイントになる 要するにポジショントークのパトロンである たとえば愛知トリエンナーレの展示は批判するが、職務を全うしない政治家については全く批判しないといったような場合は、アンフェアだろう

「ダメなものはダメ」という言葉で思い出すのは、ユング派心理学者であり、カウンセリングの専門家であった 河合隼雄 の著作である 氏もそのように「ダメなモノはダメ」であるという父権的な価値観が必要な局面があると著作で述べていたのだが 前出の「無敵の人」と河合隼雄の違いは、カウンセリングなど現場でのやりとりの圧倒的な経験値の差であろう

すなわち、ある人が「ダメなものはダメ」と断言するとき、もっとも問われるのは「それを言った人の全体的な人間性」だったりする たとえば発言に信頼性がなく、ポジショントークが多く、自分に都合の悪いことは隠すような一貫性のない人が あることを「ダメなものはダメ」と言っても 相手には「ナメられて」しまう 子どもであればなおさらのことだろう 禁止する相手に対する信頼がなければ、禁忌を守ろうとは思わない

しかしTwitterの場合は少し異なる 相手の人間性や全体性を把握することなく プロパガンダ的な広告塔のアカウントがそのまま権威となる 広告塔から発信された断固たる言葉を利用して 自分や他人を飼い慣らそうとする構図がみえる

いまの社会では 人間性に対する信頼は薄まっており 合理性はあまり重視されない むしろ非合理的であっても力があればそのおこぼれにむらがるような傾向がある ただ全くメチャクチャをやるのもおちつかないので 広告塔の権威が発信しているもっともらしい言葉を使って自分を飼い慣らしてもらおうとする またその際の自己正当化のために他人を蹴落とそうとする その道具として父権的な言葉が使われる面が大きいのだろう