さようならエクソシスト

(ネタバレあり)

映画「エクソシスト 信じるもの」

何がダメだったのか?

映画というものはその観る人のスタンスによって違ってくるので、中には傑作だ!面白かった!と高評価する人もいるだろう。

自分的には初作「エクソシスト」をリアルタイムで観て、さらにその後のホラー映画の軌跡を見守ってきた立場からするとダメ出しする部分しかないと言わざるをえない。

高評価する人のレビューで「第一作めの作品へのオマージュが素晴らしい」というものがあったのだが、「どこが?!」とツッコミを入れたくなったものだ。

むしろ「エクソシスト」という重い十字架を背負わない方がまだ身軽に自由に作れたろうに。

そもそもこの監督は、ホラー映画のセオリーを理解できていない。

脅かし方にしても突然大きな音で観客をビックリさせるなどの薄っぺらい手法でストーリー上の中身での恐怖感が皆無。

そして、初作を意識するあまりのあまりにも取ってつけたようなオマージュもどきの数々・・。

そのムリムリ感が全てを台無しにしてしまう。プロットに即していないから「なぜそこでそうなる?」という違和感の連続。

一見、初作へのリスペクトとオマージュをアピールするものの、全く「愛」が感じられない。この監督は「エクソシスト」というコンテンツにリスペクトも何も持っていないであろう。ただポーズだけ。

ネタバレになるがヘレン・バーンスティンの起用はほぼストーリー上無意味であるばかりか、バーンステインのゲスト出演は、真のカメオ出演者であるリンダ・ブレアのためだけに起用されたオトリのようなものだというワザとらしさ。ブレアのカメオ出演はかなりの人が予想がついたのではないか?マーベルとかDCなどのカメオを見慣れた層から見ればなんと薄っぺらいチープなアングルなのか。あまりにもお手軽すぎる。というか、ファンサービスなのだろうが、そんな浅い部分でしか勝負できないのだろうか?という話である。

プロットでもいくらでもツッコミ所がある。

悪魔パズズがなぜあの二人の少女に憑依したのか?必然性が薄すぎる。

初作ではメリン神父という説得力のある必然性が存在していた。そのメリンがいないなら、その代わりになる必然性があって然るべきだろう。

悪魔祓のやり方をもう少し専門的に描いてみせるとか、悪魔学的にもう少し掘り下げた設定を入れるとかあったはず。

登場人物も(悪魔も含めて)皆、中途半端で無能の集まりである。

無能な者が集まってワチャワチャああでもないこうでもないと大騒ぎして最後は結局うまくいったのかどうやらなんだかわからないうちに終わる。登場人物だれ一人感情移入できるのがいないのだ。

これを一作目にして三部作製作するそうな。もう観に行く必要もあるまい。これではコケて製作費出なくてプロジェクトそのものが悪魔祓いされて消えてしまう可能性大ではないかとも予想している。

じゃ、どうすれば良かったのか?というアイデアが一つある。

それは最後にカメオで出演したリンダ・ブレア演ずるリーガンが傷ついた母クリスに会いに来る。

「お母さん、私よ、リーガンよ」。

二人は感激の抱擁して映画は終わる。

なら、ここでこのリーガンに何か仕掛けをすべきなのだ。最後にリーガンの顔をアップした時にリーガンの目が白目だったとか・・。

つまり、そのリーガンはホンモノではない?!みたいな終わり方。

え?あれ、あのリーガンはまた悪魔に憑依されているのか?と視聴者に思わせて次作に引っ張る・・。

そのくらいの仕掛けがあってもよかったのに。要するに「愛」が足りなさすぎる。

以上。

さようならエクソシスト。

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