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しょーもない自分に。

このnoteでたくさん記事を書いてきた。
その都度何も飾らず、その瞬間自分の伝えたいことを自分の書きたいように表現してきた。
だからこそ、たまに昔の記事を見返すと恥ずかしくなってくる。
「あ、こんな文章書いてたのあなた。。。」みたいなことが多々ある。
というか、ほとんどそんな感じだ。

もっとこう、”オトナ”な文章っていうの?
新聞記事のような文章とか書けたらいいよね。
でも、情報の羅列みたいな文章とかも書くことができる能力っていうのは自分の将来的には重要かも。
その点で言うと、このnoteを通してそういう練習するのもありかもな。
このnoteを見てくださっている方はぜひご期待ください。

今回この記事を通して考えたいなって思ったのは、瞬間を一生懸命に生きていたり、それを表現してたら、いつかそれはクサイ過去になっちゃうよねってこと。
でもそれを愛でる力が今欲しい。
だってそれも事実であり、自分の一部であるから。
黒歴史ってやつを背負っていかなくちゃいけないよね。僕みたいにSNSに割と助けられている人間って。
今巷では「切り抜きチャンネル」がはやっているけど、切り抜けば笑えるしネタになるけど、そんな単純な事象って意外と少なくて、必ず文脈が存在してるんだよな。

だから、僕のこのnoteも切り抜かれたら相当イタイ、クサイ扱いされる確率高めだけど、
んでそういういじりされたらいやだなって思いそうだけど、それすらも背負って、自分を愛でていきたいと思っている。
そんなイタイ自分を愛でたり肯定するっていうことじゃなくて、
そういうイタイ自分をちゃんと見つめることが出来るような自分を愛でていきたいって感覚。

いつまで経ってもしょうもない自分であることは間違いないから。もういっそのこと偉くなろうとか、カッコよくなろうとかっていう方向じゃなく、
もっとしょうもなくなろう。もっとダサい自分を極めよう。っていう方向にアンテナを張っていこう。
ダサくてクサくてイタイ自分を許容してくれたり、一緒にいてくれたりする人を僕は大事にしなくちゃいけない。
もちろん、理想を追って行ってしまう時間とかこれから多くなるかもだけど、そんな自分もどこかの自分が切り抜けばダサいんだよな。

どこまでいっていもしょうもない自分へ。
これからもしょうもないを供給し続けてください。

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

- Charlie Chaplin (チャップリン) -

https://iyashitour.com/archives/25640



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