見出し画像

退職願を文学的に書く

 最近は「退職代行サービス」というのがあるらしい。まあ、会社の上司や人事担当者との、退職にあたってのやりとりを煩わしいと思う気持ちは理解できるが、退職するのにお金を支払わなければならないとは世も末だ。

 私は企業の人事部門で働いていたので、退職願を目にする機会がよくあった。ご存じの通り、退職願というのは「辞めます」という意思表示をする書類だ。その他にも退職届というのもある。退職届は、退職することが会社に受理され、退職日が確定した後、退職を会社に対して届け出るための書類なので、「辞めます」という意思表示をするものではない。
 人事部門で働いていた、と偉そうなことを言っているが、振り返ってみれば、私は退職の常習犯だった。起業して独立する前に、「いったい俺は何社を渡り歩いてきたのだろうか」と数えてみると、12社にお世話になっていた。フリーター時代には10職種以上は経験しているので、全部合わせると結構な数になるが、バイトを辞めるときは「辞めます」と言うだけで退職願などは書いたことも無かった。どうして私はこのようなダメ人間だったのかと振り返ってみると、私の“辛抱が続かない”とか“すぐに飽きてしまう”という、持って生まれた資質に原因があることが分かる。
 しかし、そのように自分を否定してしまうと生きるのが辛くなるので、あるときから、自分は物事に対して“正直なのだ”とか“自分がこうだと思ったことに突き進む信念の人なのだ”と考えるようにした。しんどい環境に居続けるとストレスが溜まるので会社を辞めてしまうわけだが、実行に移すには相当なエネルギーが要る。退職の意思があっても辞めることができないという人は、エネルギーが不足しているのかもしれない。私は、“自分はエネルギーに満ち溢れた有言実行の人なのだ”と自分に言い聞かせながら、12回も退職願を提出してきたということだ。

 退職願の形式は自由だ。「辞めます」という意思表示がされていれば問題ない。にもかかわらず、99%の人が同じ形式で提出する。
『この度一身上の都合により、来たる令和○年○月○日をもちまして退職いたしたく、ここにお願い申し上げます』
という形式だが、
『令和○年○月○日付で退職します』
でも全く問題ない。つまり、退職意思と退職希望日が書かれていればよいのだ。
 自由形式だから感情溢れるポエム(詩)でも構わない。また、小説のようにストーリー性があって、複数の登場人物が出てくる文学的エッセンス満載の退職願でも構わない。受理する側、たいていは上司とか人事部門の人が最初に受け取るのだが、この人たちが中身を読んで、
「君の退職願、面白かったよ」
「連載してみる気はないかね?」
なんていうやりとりがあったら、どんなに愉快な職場だろうと思う。しかしほとんどの場合、受け取った人は
「退職理由は?」
と、たとえ退職理由に全く興味が無くても、そのように聞くのがマナーだ。 
 このとき、退職希望者がどのように振る舞うかが見所だ。退職希望者が退職願を人事部に持参してきた場合、周りの人たちは皆、仕事しているふりをしながら耳をダンボにしてやりとりに耳を傾ける。どんな修羅場になるのかドキドキワクワクしている。パソコンのキーボードをカタカタと叩く音も、若干ミュート気味になる。
 退職願を提出してきた人の振る舞いは様々だ。その場でいきなり泣き出す人もいれば、真っ正直に、
「アホ上司が気に入らねえんだよ!」
とぶちまける人もいる。そんな人はまだマシな方だ。顔色一つ変えずに淡々と、
「法的に、退職理由を告げなくてもよいことはご存じですよね。あまり詮索の度が過ぎるようでしたら労働基準局に通告しますよ」
というようなことをおっしゃる人もいる。私の経験上、こういう人は何か相当会社に恨みがあるようだ。

 ところで、この「一身上の都合により…」という言い回しはなんなのか。このことについて、ある学者が、
「つまり日本社会では、“主体的な行動”や“主体的な理由”という個人の意思は認められないわけですね…」
と解説していたが、それは考えすぎだ。そんな深い意味はない。退職希望者が退職理由を“言いたくない”こともあるだろう。会社も退職理由を“聞きたくない”場合だってあるだろう。そんな“聞きたくない”ことを書面にして提出されたら困る。だからとりあえず「一身上の都合」ということにしておくのだ。退職を一度もしたことのない学者のコメントなんて、実にいい加減なもんだ。

 さて、会社が受理した退職願は、後日、ハローワークで審査されることになる。本当に自分の意思で退職したのか、会社が強引に退職させたのではないか、などを調べるために、退職理由を審査する。退職理由によっては、退職者に求職者給付(いわゆる失業手当)が支給されるからだ。国のお金だからハローワークの職員たちも必死になっている。「一身上の都合」による退職は、主体的な退職(自己都合による退職)とみなされる。自己都合退職の場合、失業手当に給付制限がかかる。国としては、できるだけ失業手当を払いたくないので、ハローワークの職員たちは、退職願の中に「一身上の都合」の言い回しを発見すると、とても安心するのだ。
 これから退職を考えている人に提案したい。「一身上の都合」の言い回しを使わずに、ハローワークの職員たちが心を鷲掴みにされ、失業手当を給付したくなるような退職願をぜひ書いてみてほしい。落語の人情物ストーリーならそれが実現できるかもしれない。個人的には、ミステリー仕立ての謎解き形式というのも緊張感があって良い。書けたら、ぜひ、note創作大賞のオールカテゴリ部門に応募してほしい。(了)

#創作大賞2024 #エッセイ部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?