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優しさの中に見下している感情が透けて見える話

僕の職場では、主任(平社員の1つ上の職位)に上がるためには、1年に1度行われる試験に合格しなければならない。

早い人はストレートで合格するし、遅い人でも3年受け続ければ、ほぼ全員受かるくらいの難易度らしい。

その試験に、5回連続で落ち続けている人がいた。

そういう噂は社内を音速で駆け巡るので、その人は社内でちょっとした有名人になっていた。

彼は僕よりも先輩なのだが、年齢は同じということもあり、時々言葉を交わすこともあるくらいの仲であった。

特に仕事ができないというわけでもなさそうなのだが、“何回も試験に落ちている”という事実だけで、周囲からは「仕事ができない人」というイメージを持たれているようなので、少し不憫だなぁと思っていた。

そんな彼が、6回目の試験でついに合格した。

社内は

「よかったね!」
「おめでとう!」
「ついにやりましたね!」

と大拍手。彼は会う人みんなに祝福されて、その度に「どうも、どうも」と恥ずかしそうに言っていたのだった。

しかし、その日の終業後、僕は彼が社屋の陰で、この世の終わりみたいな暗い顔をして佇んでいるのを見かけた。

とても、数年越しで合格を勝ち取った人とは思えないような表情だったので、そっとしておいた方がいいかと迷ったものの、声をかけてしまった。


僕が「主任もその下もほぼ一緒じゃね?」と思っているようなひねくれ男だからだろうか。
一生昇進しないような窓際平社員だからだろうか。
どの派閥にも属していないぼっちなので、誰にも言わないと思ったからだろうか。

近くのカフェに入ると、彼はアイスコーヒーを飲みながら、堰を切ったように話してくれた。

一生懸命やっても受からない自分の無能さ。

「この試験で何回も落ちるなんてヤバい」と言ってくる、1回目で受かった同期のこと。

聞いてもいないのに、試験対策を教えてくる名前も知らない先輩のこと。

産休や育休でしばらく出社していなかった人に、簡単に追い抜かれてしまう虚しさ。

「いい加減受かってくれないと困る」とプレッシャーをかけてくる上司のこと。

敬語を使いつつも、内心馬鹿にしているのがわかる後輩たちのこと。

ついに教育係としてついていた後輩にも抜かされたこと………

そして、今日みんなから受けた祝福が、何よりもキツかったという。


彼が感じた感覚、僕にはよく分かる。
学生時代に味わった、苦い記憶によく似ているのだ。

僕は長距離を走るのがすこぶる苦手で、マラソン大会では毎年のようにほぼビリだった。

マラソン大会で最後方だった人はわかると思うが、ビリに近い人は、それはもう大声援がもらえる。
下手したら、トップ争いよりも声援が大きいかもしれない。

先生や保護者だけでなく、先にゴールしている同級生が全員で

「がんばれ!」
「最後まで!」
「あきらめるな!」

と応援するのだ。

これがもう、屈辱以外の何物でもない。

特に、同級生による上から目線の声援が一番つらかった。
ほっといてほしかった。みじめで仕方なかった。

得意な分野で結果を出した自尊心と、緊張から解放された最も気持ちがいい状態で、自分よりも能力が劣っている同級生に声援を飛ばすのってさぞかし気持ちいいんだろうな。

と、しっかりとひねくれながら走っていたのを覚えている。

ゴール後の万雷の拍手も本当に嫌だった。

「よくがんばった!」

と言われる度に、もうやめてくれ、と思った。

同い年みんなが軽々とやっていることを、自分は“やり終えた”だけで拍手をもらってしまう。

これがどれほど情けなかったか。

先生や保護者から

「最後までよく走った!」

と言われる度に、

「(いやいや、他のみんなは当然のように最後まで走っているし、何だったら僕の何倍も速く走った後に、ビリの人を応援までしているよ。そっちをもっと褒めてくれよ)」

と思っていた。

できる人が言う、

「最後までやり遂げることに意味がある」
「それぞれのペースで頑張ればいい」

というような言葉ほど、響かないものはない。

人は自分より劣っている存在には強気でいられるが、それだけではない。
人は自分よりも劣っている存在にこそ、“優しく”できるのだ。

それは、自らの精神的余裕から来る、“見下しの優しさ”である。

「できない側」の人間は、優しさの向こうに透けて見える上から目線に、とても敏感なのだ。

「……わかりますよ」

僕は、一言だけそう言った。

多分、本当にわかる人の「わかります」だったのだろう。彼は、

「そうですか……よかった」

と笑った。

そして、アイスコーヒーを一気に飲み干した後、

「主任になったので、奢りますよ」

と言うと、伝票を持って立ち上がった。


僕たちはきっと、これからも上手く行かないことの方が圧倒的に多い。
定年退職するまでメンタルが持つかどうかも危ういし、生きていることすら嫌になることも、たくさんあるだろう。

だからせめて、同じようにうまくできない人に、心から寄り添うことができたらな。

そんなことを考える出来事だった。

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