見出し画像

2/16 自我中心でなく自己中心

おはようございます。
昨夜は近所の猫たちによる発情期の唸り合いでまことに賑やかででした。我が家の5ニャンズ、若手は室内でソワソワ、お年寄り組は我関せず。
去年の今ごろはタオちゃんはまだお外にいて、ヒメノさん宅に捕獲機をセットするのが1年前の今夜。
「タオちゃん、おうちがいいねぇ」
外猫さんの攻防戦に聞き耳を立てながら、思わず呟くショロー。

さて、今朝、2回目のコーヒーを淹れながら、
「自己中心」というけど、「自我中心」とは言わないよなぁ、とフト、氣づいた。
「自己と自我」は今年のGG365勉強会の大きなテーマです。
そういや「自己実現」とはいうけど、「自我実現」は聞かない。
「自己主張」はするけど、「自我主張」はしない。
あれれ~。

世界的な場において、日本人はよく「あいまいで自分の意見を言わない」と言われますが、これには「ハッキリとした自我がない」といった含みがある。ディベートは苦手だけど、フォロワーシップは得意なのが我が国民性。自我の確立はできてないけど、自己はあるのか、日本人?
それが言葉にも現れているということでしょうか。

妄想推理班なんりの思い付き。
日本人に自己はある。イエ制度崩壊前くらいまでは、同一国家の中では自我を表立って表明する必要がなくやって来れた。ここがポイントでしょうね。

ちょっと前まで日本は「阿吽の呼吸」「言わなくてもわかる」「ツーと言えばカー」でしたもの。ところがいつしか「マニュアルがなければ」となってきた。ちなみにマニュアルは移民の多いアメリカで発祥している。つまり言語を異にする人たちの共通ルールですね。
もはや「1を知って10を知る」なんて期待しない方がいい。

日本はそもそも自我を確立する土壌がないところに、今や情報と物質だけが豊富にある。
今だって、日本人同士のつきあいでは「自我」を出さない方がうまくいく。
ただね、みんな、奥の方に「自己」はあるんですよ、きっと。

ワタシがわりとハッキリ「自我」を表明するのは、たぶん20代半ばから40代前半までアメリカ人と結婚してことに要因があると思うんです。相手にはなんだかんだ言ってキリスト教という背景があって、物事を決してあいまいにしない。それでけっこうメンタル鍛えられたし、言わなきゃわかんないから、なんでも言語化する癖がついた。
それまで「テキトー」に生きてきたワタシが一時的に理屈っぽくなった。離婚して生き方はまた「テキトー」に戻りましたけど、引き続き「こころにもないことは言えない」まま。そして、なるべくオノレの思うことを言い当てる言葉を探そうとする傾向は残った。

話はもとに戻りますけど、「自己中心」は正しい。
ワタシはかなり自己中心な人間だと自覚しており、それは意識の「自我」ではなく、無意識領域の部分によって突き動かされている。生存欲求的、本能的と言ってもいい。なので、やむにやまれぬそういった衝動に支配された言動というのは案外的を得ている、ハズレが少ないように思うんです。
自己中心でいいんだ、って思います、はい。
自我中心だと小賢しい考え、作為が入って来るけど、自己中心はピュアなんじゃないかな。

日本人は自我は確立しにくい分、意識してない部分の自己はけっこうバランスよく持ってるじゃないかしらん♬
もちろん自我もそこそこあった方がいい。
まぁ「自我」とか「自己」とか考えること自体面倒くさい~という人も多いと思いますが、このブログはワタシの覚書なのでいいんです、はい。

結論はありません。
思い付きで書いてるだけですから。
「一生発展途上」がモットー。

今日もお付き合い、いただきありがとうございました。
今日もご機嫌元氣な1日を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?