見出し画像

【シンプルな暮らし】モノを手放して自由になる


数年前からシンプルな生活に憧れるようになった。ふとしたきっかけで使っていないモノを捨ててみたときに、その分、自由になった気がしたからだ。

元々、モノが多い家で育ってきた。母は「これは大切だから」、「いつか使うから」、「どうして捨てなければいけないの」と言って、モノを捨てない人だ。

家中の収納スペースが使わない古いもので溢れ、今、本当に使いたいものは取り出しにくい場所に押し込まれていたり、床に置かれていたりする。
(シンプルな生活が憧れの域を出ないのは、自分にも改善の余地がある他、自室以外がそんな状態だからでもある)。

そんな母に育てられた私の部屋は、当然モノに溢れていた。本棚に入りきらない本を枕元に積み、クローゼットに入りきらない服と一緒にベッドで寝ていたほどだ。

何年か一人暮らしをしてモノの量が少ない生活を経験したにもかかわらず、実家に戻った後もそのままの状態でしばらく暮らしていた。一人暮らしの時よりも明らかに暮らしにくかったが、その一因がモノの量の多さにあるとは気づけずにいた。自分が子どもの頃に育った環境が普通だと、どこかで思っていたのかもしれない。

そんな意識を変えたのは、偶然目にしたシンプルな暮らしをする人のブログだった。そこから断捨離、シンプルライフというキーワードでブログやSNSを読み漁るようになり、次第にその身軽さに憧れるようになった。(その過程でミニマリストにはなれそうもないと悟った)

ゴミ袋片手に最初に手をつけたのは、着なくなった服、使わない雑貨、埃を被ったぬいぐるみなどの細かいモノ。捨てる時の一瞬の罪悪感と引き換えに、それが目に入るたびに感じていた「使っていない」という罪悪感がなくなった。

他にも様々なモノを捨てたり売ったりしてきたけれど、手放すことで特に自由を感じられたのは、ベッドと本棚だ。

床との間に掃除機が入る隙間がない、しっかりとした脚なしベッドを使っていた。ベッドの下を掃除するときは、ベッドマットとそれを支える床板を外して、枠の内側に掃除機をかけなくてはいけない。

ベッドマットは厚さ15㎝もあって重たく、床板も木のささくれに注意が必要だ。どちらも引きずるのも億劫なほど大きくて、扱いづらかった。大きくて動かせない箱の重たい二重の蓋を開けて、その中を掃除する感覚だ。底のない箱に入っているのはプレゼントでも大切なモノでもなく、綿埃だけだけど。しかも掃除の間、その2つを置いておくスペースを確保するのも四苦八苦していた。

あと、ベッドマットはカビを防ぐために、折を見て立てかけて干し、乾燥させなければいけない。雲ひとつない青空と一緒に、掃除や乾燥を待っている窓際のベッドが目に入ったある日、「布団生活にしよう」とベッドを捨てた。布団は日々の上げ下ろしが少し面倒だが、慣れてしまえばなんてことはないし、干すのにもベッドほどの手間はかからない。

「天気がいいのに、いいからこそ、やらなければいけないことがある」という複雑な感情から解き放たれた。

そして本棚。幅60㎝×奥行30㎝×高さ180㎝の本棚2本を何百冊もの本と一緒に手放した。

昔から「好きなことは?」と聞かれると読書と答えていた。無難な答えだと言われそうだが、実際好きなのだ。文章力には何も反映されないけれど。

そんな私が本棚と共に大量の本を手放すのは、本好きというアイデンティティも一緒に手放すことになるのではと恐れていたけれど、そんなこともなかった。所有する本を10冊ほどに減らしても私は本が好きなままだ。図書館で借りたり、買った本が溜まったら手放したりしながら、読書を楽しんでいる。

本をたくさん持っていなければ本好きとは言えないという固定観念に、一番縛られていたのは私自身かもしれない。こうして、知らず知らずのうちに固執していた本好きの定義から自由になった。

そんな大型家具たちを捨て、クローゼットの中を整理したりして、部屋には自由に使えるスペースが増えた。好きなところに布団を敷いて眠り、好きなように本を読む。それまではモノが置いていないスペースが1㎡ほどしかなかったのが、今では布団2枚が優に敷ける、机と椅子しか置いていないような部屋となった。

そして、部屋に犬を連れてきて一緒に過ごせるようになった。そんな選択肢の広がりも自由を感じたことの一つだ。ほとんど目が見えない老犬は、もう走り回ったりはしないのだけれど、気まぐれに歩き回るのにモノを置いていない安全なスペースが必要で、それまでの部屋には連れて来れなかった。

多すぎず少なすぎず、最大限の自由を得られるモノと暮らしを探っていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?