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「イヤッ」と言うこと

 とある友人が、自分のお友だちのお孫さんをとてもとても可愛がっています。写真や動画をたくさん送ってくるとのことで、私も見せてもらいました。そこには、「あーい」と返事をする様子や「イヤッ」とキッパリ言う様子が写っていて、大いに心がなごみました。と、そこまではいいのですが、その際、一つ、重要なことに気づいたのです。それは「私は幼い頃、『イヤッ』と言ったことがほとんどない」ということです。
 これは決して、溺愛されたから嫌なことをせずに済んだ、などというわけではなく、イヤだと思っても、なんだかんだ言いくるめられてしまうので、抵抗するのを諦めた、ということです。と書くと何やら大層ですが、例えば、小学校の頃、私は学研の『科学と学習』をとても楽しみにしていました。中身はもちろん、付録が色々おもしろかったのです。ある時、生協だかなんだかの集いで、家にお母さんたちが子連れで数名来ることになりました。その中にはがきんちょも混ざっており、子どもが大嫌いだった私は、その来訪日が『科学と学習』の届く日と近かったこともあり、「めんどくせーな、一人で遊べないじゃん」と思っていました。案の定、新しい付録をめざとく見つけたガキども(←失礼な)は「貸してー」だの「遊びたい」だの、いじりにやってきます。私はそれがイヤでイヤでたまらなかったのですが、そこで断ると、もちろん母の「貸してあげなさいっ!」攻撃が来るのが分かりきっていたので、仕方なく貸して差し上げました。もちろん、変ないじり方をされたりもして、きれいに作りたかった部分が汚くなってしまったり、大切だったものは台無しにされました。そして、がきんちょが帰ってからそれを訴えても「それくらい我慢しなさい!」で終わるのでした。

 こういうことが重なると、「イヤだけれどイヤといえない」人間ができあがります。小さなことですが、ゴミ捨て一つにしても、「頼まれる→したくないから断る」という権利があるはずなのに、それを行使しようとは思わなくなります。そして、それを後で訴えたとしても、仕向けた人間は「イヤだったらちゃんと言えばいい」だの、「その時にちゃんと言えばいい」だのと言うのです。挙句の果てに「しつこい!」と叱られたりもします。それがさらに高じると、恐ろしいことに、無意識で「断ろうなんて思いもしない」人間になってしまうのです。
 
 なぜこんな昔のことをここまでくっきり思い出したかと言うと、今日一気読みした『マンガでわかる境界知能とグレーゾーンの子どもたち』に、断らないことで、自分が優しいと思う子どもがいる、ということが書かれていたからです。私の場合は「自分が優しいと思う」ことさえ否定されていましたが(「あんたは冷たい」と言われていた)、それはまあともかく、NOという交渉が通る環境というのは大切だなーと思ったりもしました。
 こういう経験があるからか、機嫌よく遊んでいるのに友だちの「貸してー」攻撃に見舞われ、挙句の果てに「仲良くトン!順番番!」と歌まで歌われてブランコをゆずってしまうしまじろうのシナリオに嫌悪感を抱いてしまうのでした。

 ちなみに、「イヤッ」と言えなかった人間は大人になってどうなったかというと、誰にも頼まれていないのに勝手に「私がやらなきゃ誰がやるの」(by セカオワの「ピエロ」)と思ってしまうような人間になり、でも好きでしてるんでしょと思われて別に感謝をされるでもなく、さらに感謝をされるだけのことをしているという自覚もない人間になったのでした。そこに気づいてからは、イヤなことはイヤと言おう、と思って身構えているのですが、無意識が変わったのか、そうなると誰もイヤなことをさせようとはしなくなり、振り上げた拳を下ろす先がなくなってしまって少し滑稽、というのが今の状況です。

 ここまで書いてまたまたいきなり思い出したのですが、『大草原の小さな家』で、知り合いの娘さんがローラの人形(シャーロットという名前)をめちゃくちゃに扱いつつも、帰る時間になっても手放そうとしないので、その人形をプレゼントする羽目になる、というシーンがあります。物語では、その女の子が帰った後、かあさんが「悪かったねローラ」と謝るので、読み手としては少し溜飲が下がるのですが、我が家ではそういうやりとりは決して行われませんでした。(その後ローラは人形が道に捨てられているのを見つけ、抱き上げてつれかえります。そしてほつれなどをきれいにし、頬紅が濡れて滲んでしまった部分は新しい布に交換して、人形はまたローラの腹心の友に戻るのでした。)

 というわけで、清々しいまでに「イヤッ」と言うことは大切、ということついて書きました。

 




 

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