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どこまでがどうでもいいんだろう。

「こんなの、大人になってなんの役に立つんだよ」

学生だった頃、よくそんなことを言っていた。わたしは文系だったから、サインコサインタンジェントとかルートとか、そんなもんをなんで覚えなきゃいけないんだよ、とか。

結局、あの頃ブツクサ言いながら覚えたサインコサインタンジェントもルートも、今となってはまともに覚えていないし、何ならテストで赤点を取らない以外の意味なんてまったくなかった。少なくともわたしにとっては、「どうでもいいこと」だったのだ。

(もろ理系だった祖父に言わせると、『あれもそれも会社に入ってから使った』というので、それらの勉強が誰にとってもどうでもいいわけではない、のも知っているけど)

さて。ここ最近、「日本のこんな教育、おかしくない?こんなのどうでもよくない?」って話をよく聞くにつけて、「うんうん、たしかに」と思う自分がいる一方で、「そうなのかな?」とも思う。

たとえば、以前息子が鍵盤ハーモニカをうまく演奏できなかったことがある。そのときは毎日居残りさせられて、「できなければ進級できないぞ」と冗談めかした脅しをかけられ、時には泣きながら練習していたようだ。

べつに、「居残りさせてまで鍵盤ハーモニカを練習させるなんて!」とモンペぶってみたり、「嫌ならやらなきゃいいじゃん」と投げやりになってみたりするわけではないけれど、ぶっちゃけ、鍵盤ハーモニカがうまく弾けるかどうかなんて、小学校の音楽の時間以外ではどうでもいい問題だと思うんだ。

ただ、たぶんだけど、そういうのって鍵盤ハーモニカ自体がどうこうというよりは、「あきらめない心」とか「やりとげようと努力する」とか、そういうのを育む意味合いも含まれるんだろう。そう考えると、簡単に「やらなきゃいいじゃん、どうでもいいし」と言ってしまっていいものか?と考えてしまう。

みんな同じようにさせる教育というのは、たしかにある種の気持ち悪さを感じることはある。けれどそれは協調性を身につけるうえでは、必要なステップなのかなあと思ったりもする。

昨今では、協調性なんてくそくらえみたいな意見も見られるけれど、少なくとも日本で生きる限り、協調性をまったく無視していいってことはないだろうし。

なんて考えていると、結局どこからどこまでが「そんなのどうでもいいじゃん」で、どこからが「いやいや、これは必要なことですよ」なのかが、わからなくなってくるんだよなあ。

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