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〈子どもは愛情を"与えられるだけ"の存在か?〉

こんばんは(=゚ω゚)ノ

愛着障害、社交不安障害当事者で、2度の転職、現在3度目の休職中の謳歌(おうか)と申します。

最近考えていることを書いてみます。
何か感じていただけたことがあれば、ぜひなんでもコメントください(=゚ω゚)ノ

〈子どもの発達への興味〉

私は、自分の養育環境や愛着障害の影響もあり、児童発達や教育に興味があります。

以前、障害を抱える子どもを支援する仕事をしていたこともあります。

その経験の中で感じてきたことを書いてみようと思います。


それは、
「子どもは愛情を“与えられるだけ"の存在なのか?」
という問いです。

〈"教育的観点"と"上から目線"は違う〉

子どもはよく、"可愛く愛すべき存在"として語られることが多いですよね。

そして最近では、幼児期の両親の愛情、本人の特性に合った関わり、受容の重要性も多く語られています。

“子どもは愛情を与えられるべき存在だ“

それは確かな事実だと思います。

しかし、"愛情を与えられるべき存在“という観念に囚われすぎ、

"教育的な観点“という名目で"上から目線"で子どもと関わり、

"子どもを1人の人間として見る"という視点が失われてしまう時がある
と、思っています。


「教育的観点」と「上から目線」は、全く違うと思うのです。

〈子どもは愛情を"与えられるだけ"の存在ではない〉

私が思うのは、

私たち大人も、「子どもから多くの愛情を"与えられている"」ということです。

そこを忘れた途端、大人は子どもに支配的になる気がします。


「あなたのために働いている」
「あなたのために言っている」
「あなたのためにやっているのになんで分からないの?」


こんな言葉を時折聞きます。

私はこういった言葉を聞くと、"子どもを人として軽んじている"と感じます。

もちろん、子育てや教育は一筋縄ではありません。
大変なんて一言では、表し切れないものだと思います。

しかし、子どもは"愛されるだけの存在"ではない。

彼らも、立派に大人に愛情を与えている
そう私は考えます。

それに、子どもを対等に見ている大人から発せられる言葉には、重みがあります。

子どもを舐めていない"説得力のある大人"と、
子どもを舐めて"操ろうとする大人"の違いは、
そこを分かっているかどうか、だと思うのです。



以上、最近考えていることでした〜

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます(=゚ω゚)ノ

ではでは〜♬

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