見出し画像

居場所を見つけた人は強い

連日のサッカーワールドカップの放送をテレビで観ながら、うーん、なるほどなぁ、と思ったことを、書いておく。

特定のお名前をここに書くことはあえて控えるが、サッカーのテレビ放送というと必ず登場して、やたら明るくてよくしゃべる解説者として群を抜いた存在感を見せつける方がいる。

今年のワールドカップでは、Abemaの配信で解説を担当していた、本田圭佑さんのしゃべりのおもしろさが話題を呼んだが、前述の解説者の方は、それより何世代も上、もはや「サッカー解説といえば」という地位を揺るぎないものにしている人だ。

しかし、本田氏のように現役時代に選手として大活躍したり、監督として輝かしい結果を残したかというと、実はそうではないらしく、けれども「選手も監督も経験があるテレビ解説者」というポジションには見事ぴたりとハマったようだ。

選手の時代も、監督の時代も、将来テレビのサッカー放送で大活躍する解説者を目標に、彼はがんばっていたわけではないだろう。
そのとき、そのときで、選手として、監督として、目の前の責務に精一杯向き合っていたはずだ。
それでも思うような功績は残せなかった。
けれど、その道程は現在の「テレビ向きな解説者」という場所にはつながっていたのだった。

そのことについて考えながら、やっぱり、人生に遠回りなんてないんだなぁ、とあらためて思う。

先にどうつながるかなんて考えずに、いま一生懸命取り組んでいる、目の前のこと。
その経験が、のちのち意外な武器となって、自分を次のステージへと導いてくれる。

もちろん先々の目標を見据えて、そのために今、がんばるのもいい。
でも、そうすることがすべてプラン通りに運ぶとはかぎらないように、目標なんて考えず、ただがむしゃらにやっていたことが、いつのまにか自分をステップアップさせてくれていた、ということもあるのだ。

サッカーを見ていると、なんてハードなスポーツなんだ、これじゃあ選手生命が短いのも当然だ、とつくづく思う。
現役選手を退いても、まだ人生の半分にも満たない、それどころか3分の1程度しか生きていない、という人も多いだろう。そして、その全員がサッカー解説者になれるわけではない。
選手としてどれほど人気を博し、知名度があっても、少ない解説者の椅子にやすやすとは座れない。そこにはやはり適性が必要なのだ。

選手として輝く人、監督として輝く人、解説者として輝く人、またはタレントが意外に向いていた、経営者としての才覚があった、という人もいるように。

実は、わが兄も、小、中、高、大学とサッカーを続け、卒業後はプロ契約もしたが、ケガによって20代で引退した人である。(兄の話は、「やってきたことがまとまりだす年齢」にも書いており、この過去記事はわたしのこれまでのnoteのなかでも最多のスキを獲得している)

その後は理学療法士の資格を取得し、Jリーグチーム専属のトレーナーとしても働いたが、10年でそのキャリアに一旦区切りをつけた。その決心をしてもなお、まだ40代だった。
そんな兄の現在のはたらき方を見ていると、やってきたことはすべて、今につながっていることがわかる。
選手として、トレーナーとして、プロの過酷さを嫌というほど味わったと思うけれど、だからこそ、今はスポーツで体を痛めた人にしっかり寄り添える施術ができるだろうし、その経験は得ようと思っても全員が得られるものではない。

先に目標を置こうと、置くまいと、夢中で何かに取り組んだ時間、自分はたしかにそのときそこにいたと胸を張っていえる経験は、必ず財産となる。

早朝からマシンガンのように饒舌にしゃべりまくる人気解説者を見ながら、この椅子を彼から奪うのは至難の技だろうし、まだまだしばらくはこの人が座り続けるのだろうな、と思う。

自分が輝ける場所を見つけた人は、強いのだ。


*上にリンクを貼った「やってきたことがまとまりだす年齢」は、同じタイトルで、本文を書籍用に改稿したエッセイが最新刊『すこやかなほうへ 今とこれからの暮らし方』に収録されています。

発売前から「Amazon 住まい・インテリアのエッセイ・随筆ランキング」でベストセラー1位をキープ中。みなさま、ありがとうございます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?