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「らしさ」に惑わされない

小さな後悔の一つに、Instagramをもっと早く始めていればなぁ、というのがある。

やる暇がなかったとか、やろうとも考えなかったとかなら、後悔などしない。わたしの場合、「やってみたいし、やったほうがいい気がする」と思っていたのに、ずるずるとやらないまま数年を過ごしてしまったのだ。

先にInstagramを始めた友人や知人に「わたしもやってみようと思うんだけど」と相談をするたびに、「なんか奈緒さんはインスタってキャラじゃないかも」「インスタは長い文章は読まれないから、奈緒さんはやっぱりブログの人でしょ」と言われ、「そっか、そうだよね」と納得したような気になって、引き下がってしまうのをくり返していた。

もちろんそこで納得したのは自分なので、わたしがInstagramをやろうとする背中を押さなかった友人をうらむ気などまったくないのだけど、このとき「自分らしい」「自分らしくない」にとらわれすぎたことが、今の後悔につながっている。

求められているものを知る


ようやく始めたのは2019年2月。
前年の2018年、『メルボルン案内 たとえばこんな歩きかた』という本のためにメルボルンを旅したとき、取材を終えるたびに、フレンドリーなオージーの彼らに「インスタやってる?」と聞かれ、やっていないと首を振ると、不思議な顔をされた。そのたびに、「あぁ、今まさに友達をつくるチャンスを逃した……そもそもなんでわたし、Instagramをやってないんだっけ」と、やりたいことをやらずにいる自分がばかばかしくなった。それで帰国後、「やっぱりいろんなおしらせをするためにもやっていたほうが便利だ」とアカウントをつくったのだった。

Instagramをはじめてみると、スムーズに効率よく人とつながりあえる仕組みに感動し(その感動は今も続いている)、フィードを流れてくる投稿も「おいしそう」「おしゃれ」「きれい」「素敵」と基本的にポジティブな感覚が刺激されるものばかりだから、Twitterにはもうひとつなじめなかったわたしでも「これは楽しい」と素直に思えるSNSだった。
それでもスタートしたてのころは、「奈緒さんはインスタみたいなベタなことはしないと思ってた」と意外がられることがちょいちょいあって、そのたびに「わたしっていったいどういう目で見られているんだろうか」と首をかしげるのだった。
郊外でマイペースに書き仕事をして、地味にひっそりと暮らしてはいるけれど、インスタだってやってみたいよ。っていうか、インスタ楽しいじゃん!わたしも早く参加させてもらいたかったわ、と思った。

今もブログは続け、noteも活用させてもらっているけれど、Instagramのいいところに「求められているものが数字で見て取れる」という点がある。

たとえば、日々の暮らしのなかでふと「インスタに上げようかな」と思うのは、自宅の庭に咲いた季節の花とか、出先でふと足が止まった美しい風景とかだったりするのだけど、それをインスタにあげてみても、大きな反応はない(わたしの写真の腕前のせいもある)。

同じ自宅の写真でも、庭ではなく室内の風景で、そこに家族がうつりこむと、コメントがきたりして投稿がにぎやかになる。そうした反応を受け取るうちに、フォローしてくれている人たちが自分に求めていること、期待してくれていることがおのずと見えてくる。わたし自身、人の投稿にいいねを押すのはほとんど感覚的な動作だから、アンケートや対面での会話でははかれない、発信の受け取り手の潜在意識の部分が、Instagramのいいねには表れるのだろう。企業がInstagramを活用したPRやマーケティングに力を入れることに今さらながら納得した。

慣れとセンス


おしゃれにしても文章にしても、何につけセンスというものは、数をこなし年数を重ねることでこなれてゆくように、Instagramの発信力も、やはり慣れとセンスによるところは大きいように思う。
「この人のインスタは上手だなぁ」と感じる人は、やっぱり投稿数もそれなりであるケースが多いし、わたしも最初の年にくらべれば多少は慣れてきたものの、まだまだスマートに操れているとはいいがたい。

たとえば、つい最近まで、ストーリーの利点というものがもう一つよくわからなくて、この機能をほとんど使っていなかった。
近ごろようやく「なるほど、こういうときに使うといいんだな」という感覚をつかみかけてきたものの、投稿した後にタグ付けなどのリンクミスに気づいて、あれ?一度投稿したらもう編集できないの? ……ってことは削除して再投稿? う〜面倒くさい!でもおしらせしなきゃ!と一人ドタバタ劇場を繰り広げていることもあり、カッコ悪いったらありゃしない。

でも、皮肉というか、おもしろいのが、「Instagramをやるなんて自分らしくないんじゃないか」となかなか踏み切れなかったことがうそみたいに、Instagramを通じて、自分の好きなことや伝えたいことをシェアでき、人がわたしに求めていることも伝わってくるという真逆の手ごたえである。

「自分らしい」「らしくない」という思い込みが、何か新しいことをはじめるブレーキになってしまうことほど、もったいないことはない。

「やってみたい」という心の声がかすかにでも聞こえたなら、やらない言い訳を考えるより先に、とにかくやってしまったほうがいいのだ。
それが小さな後悔から得た、大きな教訓だと思っている。

*本日、100週連続投稿を迎えました。
それなりの達成感はありつつも、単に通過点としてとらえることにしたので、いつもながらの小さくてなにげない、地味な話となりました。
今後も毎週金曜更新を続けていきますので、新刊ともども、どうぞよろしくお願いします。


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