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『私はすでに死んでいる』と語る『私』とはいったい誰なのか。あっけなく崩壊する自己とは何なのか。

『私はすでに死んでいる』ゆがんだ〈自己〉が生み出す脳 / アニル・アナンサスワーミー

仕事帰りに紀伊國屋書店の特設コーナーの前を通りかかって、ふと本のタイトルを見た瞬間、『どゆこと!?』と、思わず手に取ってしまった。漫画・北斗の拳で『もう死んでいる』のは『お前』だが、こちらで『すでに死んでいる』のはどうやら『私』らしい。そらエライこっちゃとページをめくってみる。パラパラと目次に目を通してみると、どうやら脳科学・精神疾患系の本らしい。おお、これは大好物なやつではないか。なかなか面白そうだけど、うーん、どうしようかな。

と、そこでふと最初のページの裏に書いてあるトマス・ネーゲルの言葉が目に入る。

『時空が無限に広がる中心のない宇宙が、よりによって私という人間をつくりだしたことが不思議でたまらない・・・。私はそれまでどこにも存在していなかったのに、この時間と場所で、生命が宿るこの肉体が形成されたとたん、私がいることになった。肉体が続くかぎり・・・ひとつの種のひとつの個体の存在が、これほどの重みを持ちうるとは驚きだ。』トマス・ネーゲル

読んだ瞬間購入を決めた。そこには『自己と意識』についての人類最大の謎が書かれてあったからだ。ここで確信した。これは単なる脳科学の本ではない。この本はきっと面白い。

家に帰って早速読み始める。読了するまでに数日かかってしまったが、その間、なんともスリリングな知的興奮を味わえた。まず本のタイトルにもなっている冒頭の『コタール症候群』からして衝撃的だ。自殺未遂を起こした男が、なんと自分の脳は死んでいると言い始めるのだ。いやいや、あなたしゃべってるじゃないですかと。いや、私の精神は生きているが、脳は死んでいるのです、すなわち、私はすでに死んでいるのです、と男は譲らない。じゃあ君は一体誰なんだと。

興味深いのは、このような状態になってしまった患者は以降は自殺を図らないということである。『すでに死んでいるのに、さらに死ぬことは出来ない』からだということらしい。『自分は死んでいて、いまの私は私ではない』と話す患者もいるそうだ。じゃあ『いまの私』とは一体誰なのだろう。

『身体完全同一性障害(BIID)』の項はさらに衝撃的だ。
BIIDというのは、自分の手や足が余分で不快な異物と感じてしまい、それを切り落とすことを心から願うという精神疾患なのだが、恐ろしいことに、一部の患者は実際に自らの四肢を切断してしまうのだ。もちろん切断したあとも後悔などは微塵もなく、むしろ実に晴れ晴れと松葉杖などを使って歩き回っているということである。足を切断し、人生で初めて、自分が完全にまとまった存在になれたとある患者は語っているほどだ。

研究によると、いわゆる『幻肢』という現象とは逆のことが起こっているということである。幻肢というのは、事故や外科治療のために手足を切断された人が、存在しないはずの手足がまだ存在している感覚を持っていたり、痛みを感じたりする現象のことだが、『身体完全同一性障害(BIID)』は、存在してないはずのものが存在してしまっていることによって、逆に強烈な違和感が生じるらしいのだ。そして四肢切断願望を抱く。この事態はちょっと想像するのが難しいのだが、身体イメージと精神イメージとのずれということであれば、いわゆる性同一性障害などと良く似たことが起こっているのかもしれない。

そのあとも『統合失調症』、『離人症』、『体外離脱』や『ドッペルゲンガー』、『恍惚てんかん』など興味深い症例が次々と続く。特に『体外離脱』を科学的に引き起こそうとする実験や、ドッペルゲンガーが現出するくだりはちょっとミステリー仕立てで非常に面白く、ぐいぐいと引き込まれた。

あと、最初に書いたように、この本は脳科学で良く言われるような『自己とは、脳が作り出したネットワークに過ぎない』とか『私とは、脳が作った幻である』というような言質には安易に着地しない。科学的な『自己』に加え、哲学的、もしくは形而上学的な『自己』にもしっかり言及しているのだ。哲学的な『自己』とは、冒頭のトマス・ネーゲルの言葉で書かれているような『自己』である。本の後半はこのような『自己とは何か』という哲学的な考察が続く。そう、この本は単なる脳科学の本ではないのだ。

それにしても人間の精神、そして意識のなんと広大で奥深いことだろうか。そしてこちらの想像をガンガン超えてくる『自己』の多様さと奇妙さ、そして精妙さと曖昧さはどうだ。

『私』とは一体何だろうか。『私』はどこから来たのだろうか。
『私』はなぜ、この時空、この地点に存在しているのだろうか。
もっと以前、もっとあとに、さらには違う『私』として存在することも出来たはずなのに。

読み終わったあと、ふと妙な想念に囚われた。
脳が『私』を作ったのではなく、『私』が脳を作ったのではないかと。
そして脳を破壊してしまうのも、やはり『私』なのではないかと。

さて、『私』とは一体誰なのか。

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