10年ぶりに観たバケモノの子について

細田守監督「バケモノの子」私なり考察をしてみます

お久しぶりです。

モミジのことを書かなくなってしばらく経ちましたが、
でもモミジを思い出さない日は1日たりともありません。
日々、祭壇にお水やお花を供えたりしながら、挨拶をしたり話しかけたりしています。
それでも日々は流れていくもので、このブログを今後どうしていくかと考えているのですが、こちらはしばらくこのままにして、自分の日常や時に猫のこと、思うがままに綴っていく場所として継続していこうと思います。
新規に新しいブログの開設を考えてもいますが、それについてはまたおりおり心の変化とともにやっていくこととします。


1、10年ぶりに見た、バケモノの子 Le Garçon et La Bête


今日は、昨日10年ぶりに見た日本アニメ、バケモノの子(フランス語/Le Garçon et La Bete)についての考察を書きたいと思います。
個人的な考えですが、よければお付き合いください。
(ネタバレも含みますので、見たいと思っている方はご注意ください)

この作品は10年前は劇場で見て、少年の成長ぶりとその孤独に共感、感動した作品で、これをきっかけにして細田作品を見るようになりました。
おおかみこどものあめとゆき、も大好きでDVDも購入したほどです。
画面から伝わって来るリアル感とファンタジー要素のバランスが程よくて、設定はファンタジーなはずなのにグイグイと引き込まれていく世界観が心地よく、同時にリアルでゾクゾクしてしまいます。

最初にこの映画を見た時は気がつかなかったのですが、これは人間界とバケモノの住む世界を陰と陽で捉えて、人の心に巣食う闇とそしてそれを救う光(ざっくりですが)を描いているのだと今回見て改めて名作と思いました。
前回見た時は、主人公の蓮くん(バケモノの世界では九太と呼ばれている)とその師匠である熊徹の感動シーンと、熊徹の戦闘の場面に気を取られていたのです。
2回目の今度はとても深いことを言っていると思える別のシーンも心にぐっさり刺さりました。


2、お話の流れと個人的な考え 
自分の殻を破るシャドーイングについて


人間界とバケモノ会の二つの世界は交わることもなく、人間がバケモノの世界では生きていくこともできないし、バケモノは人間界に出ていくことはそうない。
幼くして母親に死なれ、離別した父親とは連絡が取れず、冷たい大人たちの元を離れて一人生きていこうと決めた九太(蓮)は、バケモノの世界に迷い込んでしまい、そこから一転して熊徹の元で修行の日々を送る。
風来坊で家族もいない自由な一匹狼の熊徹に対して、ライバル的存在の二人の子供の良き父親である猪王山(いおうぜん)は人格(品格)も違う。
(なのに?人間ぽさの溢れる熊徹は私にはとても魅力を感じて惹かれるものを覚えた。)この二人の仲は当然ながら良くはないが、猪王山はその人格の高さで熊徹を大きな目で見ているよう・・・だけど、自信たっぷり。

最初の方で九太と熊徹(と仲間たち)は、10人の賢者に会いにいく。
どうしたら強くなれるのかを知るために。
それぞれ賢者は全く違うことを言っており、実際あまり参考になることはないのですが、しかし、帰ってきてふと九太は幻を見るのです。

死んだ母が一瞬見えて、こう言います。

『なりきるのよ』

ここを観た時、
そうか、フェイクか〜!
強くなるためには、相手を徹底的にコピーする。
相手になりきるということ。
私は膝を打ちました。
そうだ、強くなる、自分以上になるために必要なこと!
私もシャドーイングを使ったことがあるのです。
心理学でも言われている技法なのですが、九太もそうして強くなることを学んでいきます。

3、この世とあの世 陰と陽

バケモノ界とは対象的に、人間界はわちゃわちゃした渋谷が舞台で、
人には興味のない素っ気なく無機質、ドライで、多くの人や感情も飲み込んでもなお溢れる即物的な誘惑にあふれています。
バケモノ界は自然もあり、商店や昔ながらの小さな町といった風情で、人(バケモノ)同士の距離感も近く、繋がりも強い雰囲気。
バケモノ世界の一番のトップ長老が眉毛の長い白うさぎ、というのもバケモノ界の平和さを物語っているようで、ヒエラルキーで図られる世界ではないのがよく分かります。
そしてこの長老うさぎ(宗師ーそうし)は、転生して神に成るというらしいですから、転生して神とは!格が違います。

人間世界が陰陽の陰なら、バケモノ世界は反転した陽なのか?でもそんなに単純でもないのですよね。
でもこの二つは交わることのできない異なった世界なのです。

そして一方、何年も修行の日々を積んだ九太は体も心も成長し、その頃から人間界との行き来を始め、彼の運命を大きく変える少女、楓と出会います。
楓にも九太とはまた違った形で両親との間に闇を抱えていて、早く自立するために勉強しているのです。
環境も育ちも異なっているが、この二人には共通した思いをもっていて、
そして、楓は蓮を助けたい一心なのです。
陰のなかにある陽、混沌とする闇と光。

明るさって、優しさって、なんなんだろう?
愛情ってなんなのだろう?

ふと、そんなことが過ぎる会話やシーンが多数ありました。
そうこうしているうちに、九太は実の父親と偶然の、しかし奇跡の再会を果たします。
父親は彼をずっと探していて、一緒に暮らそうと言われ、九太は実の肉親と会えた喜びと同時に熊徹に対する反発が相まって、合宿場でもあった熊徹の家を喧嘩の末飛び出してしまいます。
このシーンの二人のやりとりは、不器用さと戸惑い、様々な思いが交錯して、全く親子そのもので泣けてしまいました。
熊徹は九太のことを本当の子供のように可愛がっているけれど、不器用な表現しかできなくて、それを冷ややかかつ荒れた気持ちで見る久太との凸凹な関係。
そうして実の父親のところに戻るのですが、両極でアンビエントな思いを抱えた九太は、そこをも飛び出してしまいます。
こんなに優しいはずの父だけど・・・何かが違うと感じていたのです。
(お父さんは普通に優しい人です)


4、気づき、心の成長と人の心を巣食う怨念の闇

一方バケモノ界では、時期宗師の座を決めるための決闘が行われていて、
もう負ける、という一歩手前で、九太はそのシャドーイングを使って、本当の師匠、父親である熊轍を救い出します。
熊徹は救われましたが、同じ場で九太を長年恨んできた一郎彦にズタズタにされてしまいます。
その原動力は怨念で、呪いの力と闇によって刀を操って熊徹を殺そうとし、あやうく熊徹は命を落としかけて寝込みますが、
怨念と自分の胸に巣食う闇に囚われた一郎太はそのまま暴走を続け、人間界までをもどんどん飲み込もうとしていきます。

この一郎太が持つ深い強い闇は、人が誰をも持っているもので、共通意識的なものでもあり、環境や起こる出来事、育ち方や考え方でも左右されるものだと思います。
一郎彦は猪王山という素晴らしい父を持っていながらも、成長を続ける九太を羨ましく思っており、心の底から恨んでいました。
彼もまた、人間世界で生まれ捨てられた人間の子であり、猪王山に拾われて育ちましたが、父親とは全く違う自分の風貌、自分のルーツについて深く悩んでいました。
成長した頃は、父に似た猪の形をした帽子を頭にかぶっていて、その姿は痛々しくも見えてしまいます。

市郎彦のコンプレックスと疑惑の思いがその闇をどんどん深くしていき、コントロールする術を失ってしまい、果てはその姿を大きな鯨に変えて、人間界を破壊していき、その闇は際限なく広がっていきます。
この様は、ジブリ映画で例えると、千と千尋のカオナシにそっくりに見えます。
表情もないけれどいつも寂しげで空っぽで、その自分の穴に埋めるべくカオナシも周りのものを口に入れてどんどん肥大し周りを破壊していきます。
その空虚な様は恐ろしくも同時に哀れでもあり、また、それは虚を抱えている自分自身でもあると感じました。


今の世の中は不安と恐怖で一杯で、見るところを誤るとどんどん暗い方へ引き込まれてしまうような強い引力を持っているように思います。
たくさんのニュースや、戦争、災害、事件。
どれも世知辛く恐ろしいことだらけのように映りますし、実際それらの情報はどれもが大きな出来事で足の竦むようなものもあります。

そして強調したいのは、その闇が、全人類共通の総合意識でもあり、その総合的な部分が今肥大している闇、一郎彦が抱えていた大きく深い虚無と仮定すると、私たちはどうやってそこに立ち向かっていくことができるのかということです。
この大きな流れの中で私たち一人ひとりができることとは、それぞれ自分の闇に全力で立ち向かうことなのではないか、とこの映画を観終わってふと思いました。

映画の冒頭部分に九十九神(つくもがみ)の存在が出てくるのですが、九十九神を知らなかったので調べてみました。

九十九神とは(wikipediaより抜粋)


付喪神は九十九神とも表記され、九十九年という長い年月を経たことを表していると言われています。 昔は、百年を経たモノには魂が宿るとされていて、モノの妖怪変化のことを「九十九神=付喪神」と呼んだのだそうです。 唐傘やちょうちん、鏡などの妖怪が有名ですね。 モノが意思を持って行動するなんて不思議ですよね。

これを見ると、バケモノ界も付喪神が人間界の意識の世界で作ったもののようにも思えてきます。
歴史を経てたくさんの思いが形となり、一つの見えない世界を作り上げているようだな、と。
つまり、見えない世界でもあるのに、裏で起こった出来事は表に出てくるということでもあって、表と裏は常に呼応し合っているようなのです。


5、究極の最後と闇を消した愛について

これを書いてしまうと完全なネタバレになるのですが、もう10年経っている映画なので良いでしょう。見たくない方は飛ばしてくださいね。

これ以上被害を広めまいと、一郎彦の闇を九太の闇と相殺させて収束させようとした九太ですが、それを知った熊徹がその窮地を命がけで救います。
自分の存在を刀にして、心の穴、闇を埋めたのです。
これについては闇を埋めたのは愛情だ、なんて辺鄙な?ことで締めくくりたくはないですし、ただあんなに漢カタギで不器用な熊徹の漢気がただただ泣けたシーンでした。
そしてこの映画は、少年がたくさんの冒険や試練を経て強い大人になっていく成長ストーリーだけでなくてあまりにも胸にこみ上げてくるものが大きくて、学ぶものも大きかったと感じました。

自分の目の前の人に起こっている問題は、人ごとではなく自分ごとでもあるということをもうすこし生活に落とし込んでそこと向き合って日々を過ごしていきたいと思いました。

なぜ、一郎彦は鯨に姿を変えようとしたのか、についてはメルヴィルの小説とも関わってきますので、またいつか、この続きを書くことがあるかもしれません。

読んでいただきありがとうございました。
これを見ると渋谷の街並みが随分変わったのだなと感慨深く、時間を置いてまた再度観てみたいと思いました。


【後日追記】

この記事を書いたのが2024年3月で、月の干支が丁卯(ひのとのう)の月なのですが、偶然にもこれは陰陽のテーマでもあるようでした。
丁は月、炎(陰的な炎)を意味しているとのこと。
この考察を通して陰陽について(闇と光、火=刀と水=鯨など対極するもの)こちらに書いたこと、引き寄せられたように映画を再度手に取り深掘りできたのは、今考えると何か意味があったのかもしれません。
自分の中に宿る炎を絶やさないように気持ちを向けながら日々を過ごしていきたいと思います。
冬から春への切り替えのこの時期、寒くなったり暖かくなったりが激しく気持ちも揺れるような新しい切り替えになることが多い時期となります。
エネルギーがもらえてとても良い時間をなりました。
まだ観ていない方、ぜひ観てみることをお勧めします。
そして細田監督、今後もファンとして名作を期待しております。





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