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四方山話

3月、卒業の季節。うちの娘も高校を卒業します。
出生児に先天性の病気があり、「障がい者」というカテゴリーで育ちました。
今でも毎月病院に通うし、気をつけなければいけないこともあります。ケアも必要ですが、僕としてはそれもこれもこの子の個性だと思っていますし、苦に感じることよりも反対にたくさんの感動を与えてもらったし、学ぶことも多かった。
家族との関わりや時間を大切にしたいと広告撮影の制作会社を辞めてフリーランスになったきっかけでもあるし、今、暮らしや民藝に関わっていることに繋がっていると感じます。
僕個人は「障がい者」と言い切る表現はしません。上に書いた通り、「障がい者」というカテゴリー、とか「障がい者」という枠、とか表現します。
あくまで今の社会の中で法律上、制度上、必要だからされるカテゴライズで、その子自身を表す表現ではないと思っています。人の性格、性質は複雑で、多様な因果関係があって周りの人と影響しあっているのだから、どんな存在も大切です。手足に不自由があるとして、時代が違えばそれは「呪い」とされていたし、戦争が原因だとしたら違った捉え方になって、歴史の中ではその基準は曖昧です。だから「障害」という表現に違和感を感じるのです。
「障がい者」というカテゴリーに入ることで、さまざまなケアが受けられることは、親としては大変助かることだし大切なことだと思いますが、その人自身の性格、性質を知ろうとすることが大切だと思っています。「知る」ではなく「知ろうとすること」。ついつい「この子はこういう性格だから」と知ったつもりになってしまうのではなく。そしてそのためにはより、自分を知らなければなぁと思っています。
これは今の僕の仕事でモノをみる上でも、大切にしていることでもあります。
「普通」や「一般」という言葉にも疑問を持たせてくれました。そういう言葉で自分の意識を限定してしまっていること。作り手やお客様からもいろいろなお話聞いていると、みんな違って、そこに「普通」なんて無いように感じます。とはいえカテゴライズは人間の本能のようなもので、共同生活の中で共通認識しやすく集団化しやすいメリットもあります。バイアスがあるから行動に移しやすいというメリットもわかる。だからこそ自分が「カテゴリー」に捉われてやしないかと「問い」を持つ。
AIの発達が目覚ましく、もはや人がやる仕事もAIができることが増えている時代に僕らは、カテゴライズにとらわれず、AI任せでなく自ら「知ろうとすること」を続けなければなぁと思うのです。そして綺麗事を言えば、どんな子供達にも明るい未来を望みます。

さて、卒業式で泣きそうになった時に、色々小難しく考えて逃れる練習はここまで。

融民藝店、明日はお休みさせていただきます。

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