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Vol_22:根本と本質とは

コロナのずっと前の話です。
当時僕が住んでいた小田急線の「鶴川」という駅
がありまして、そこから都心に行くには2駅先の
新百合ヶ丘という駅から急行に乗り換えるのです
が、そこから出る電車は超満員で有名でした。

ある日のこと、今日もさぞ混んでるだろうなぁ~
と思いながらも、こんなことでクジけてはいけな
いと自らを励ましつつ7時40分に乗車。ところが、
混んでいることは混んでいるのですが、それまで
の超満員というほどでもない。

はてさて…?と辺りを見回してみると、
優先席以外の椅子がなくなっていることに気づき
ました。座席が折りたたみ椅子みたいになってい
て、詳しいシステムは分からないのですが、どう
やら混んでいる区間や時間帯に限って椅子を出さ
ないようにしているらしい。

少し椅子がなくなるだけで、同じ大きさの車両の
キャパシティが随分と拡張するものだなと感じた。
あぁ、これはイイ解決策だと感心しているうちに、
僕はもう一つのことに気づきました。

それは、急行がなくなって「準急」になっている
ことでした。最寄りの鶴川駅から新宿方面に行く
場合、一度各停で新百合ヶ丘に行き、そこで急行
に乗り換えます。かつての急行の時代は、新宿ま
での駅をポイポイーと通過しておりましたが、
準急は一定から先は、ほぼ全ての駅に停まります。
当然のことながら、急行に比べて時間はかかるの
ですが、混雑度合いはずっとマシ。

多くの駅を飛ばす為に急行を走らせようとすると
どうしても本数が少なくなります。
乗車時間を短くしたいと思うのは人情ですから、
もちろん乗車は数少ない急行に殺到する。

同じ時間帯でも鈍行はガラガラなのに、急行は
常にぱっつんぱっつん。しかも、各駅停車との
時間調整に無理があり、電車であるにも関わら
ず車のような渋滞が常態化していました。
準急になって本数も増え、急行のような前の電
車が詰まっての臨時停車も少なくなりました。

「座席をなくす」「急行をなくす」、たった
この2つのアクションによって朝の車内の混雑が
少なからず緩和し、疲労やストレスもわりと少な
くなった。席がないので座れないとか、急行に比
べて目的地の到着時間が多少遅れるという不便は
あるわけですが、全体の福利厚生の観点からすれ
ば明らかに事態は改善しているように思った。

ここで話の抽象度がいきなり上がりますが、、、

一人一人が多少の不便を受け入れることによって、
全体の利便性が向上するという成り行き、これが
随所で作動していくというのが健全な社会の条件
なんじゃないかと僕は考えています。


ビジネスの現場でもよく言う「抜本的な解決」で
はないものの、座席と急行の撤廃による混雑の緩
和はまさに、その好例だと感じました。


そもそも、満員電車の緩和策として、当時はもっ
と強力なオプションが議論されていたそうです。
働き方を変えて在宅勤務に切り替えていくとか
(←これはコロナで一部進んだ)、都市部に集中
しているオフィスを郊外に分散するとか、東京一
極集中の機能を地方に分散していくとか、さらに
ラディカルな手段として、いっそのこと首都をど
こか人口の少ないところに移転してしまえという
話もあったそうです。

まさに根本的、本質的な解決策っぽい。

よく「抜本的な改革」や「本質的に解決」と言わ
れますが、ただ、そのような議論をする際に忘れ
てはいけない事として、社会には本質的な連続性
がある。ということだと思う。

人間は変化を嫌う生き物であり、その集積として
の社会はさらに変化に抗うという本性を持ってい
る。であれば、社会全体レベルの変化は徐々に進
めるほかない。つまり、「根本的な解決」という
のはあり得ないのではないか。という考えです。


極端な例になってしまいますが、今までも、世の
中まるごとを一挙に変えようよした派手な計画に
スターリンの一国社会主義や、ヒトラーの第三帝
国、毛沢東の文化大革命などがありましたが、
いずれも「根本的な解決」を図った挙句の果ての
大惨事となりました。つまり、変化を無理やり起
こそうとすると、ロクなことにならないというの
が歴史が教えるところではないかと。


あらゆる問題解決には必ずコストがかかります。
そこで「痛みを伴う改革」といった大袈裟な言葉
が出てくるのですが、一口に「痛み」と言っても
程度の問題かと思う。考えてみれば、健康な人が
席に座れなかったり、乗車時間が10分長くなった
ところでたいした問題ではない。

もちろん「痛み」と引き換えに手に入れられる便
益もたかが知れているけど、それでも前よりは多
少なりともラクになる。イヤホンから流れてくる
Xmasソングに合わせて足で小刻みにリズムをとり
ながら通勤できるぐらいにはなります。

「痛み」というと何かとんでもない不利益を被る
ような気になります。しかし、実際のところは、
この程度の痛みで、まあまあ意味のある改善が実
現できるというケースが世の中のあちこちに少な
からずある。ゼロリスクがないのと同様にノーコ
ストで得られる利得などそもそもありません。

ラディカル(=根本的な、過激な)

ビジネスをやっていると根本的な課題に対して、
バシバシと本質的解決をしなければいけないと思
いがちですが、そうではないのかもしれない。

目先の小さな利害に固執することなく、ちょっと
した不便やコストを受け入れることで、社会全体
の福利厚生が確実に向上する。その改善を人々が
実感として共有できる。そうした社会であるべき
なのかもしれない。

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