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雑感

あまりにも素晴らしすぎる音楽や美術の前では、言葉は何とひよわで、もろく、誤りに満ちて、惨めであることだろう。
言葉が救ってくれるはずなのに、言葉こそが世界を開いてくれるはずなのに、言葉がときどき憎くてたまらなくなる。愚鈍だからだ。

日々のニュースを見ていると、政治の本質とは言葉なのではないかという気持ちになる。責任ある立場の人間が発する言葉ひとつで、株価は上下し、国際的緊張が高まり、憎しみは増大し、誰かのクビが飛んだりするのだから。

SNSを見ることが、最近つくづく苦痛になった。
人と人のつながりにおいて不可欠なように思われるし、情報源でもあるからつい見てしまうが、不快感で終わることが多くなった。

数字は人を狂わせる。そこに希望を求めている人もまだたくさんいるかもしれないが、自分にはtwitterもfacebookも、かろうじて有用性はあるものの、広告と排泄物と承認欲求がごっちゃになって流れてくる下水道のようにしか見えない。

いつか言葉によって私たちは滅ぼされてしまうだろう。

今回の本にも詳しく書いたが、過剰な情報は人を堕落させるというような意味のことを、作曲家のアルヴォ・ペルトは言っていた。もしそれに溺れてしまうとしたら、それは誰のせいでもない、いつだって自分が悪いのだと。

そう、仕組みが悪いのではない。言葉を憎むのは見当違いだ。それに振り回される自分が悪いのだ。

そうこうするうちに、アマゾンで注文したエゴン・シーレの画集が届いた。ページをめくるたびに、目の覚めるような衝撃を受ける。その横に添えられているシーレの言葉の断片たちが、絵と良く響き合っている。見事な編集。

シーレの心からの叫びのような言葉が目に留まった。
「自分自身であること! 自分自身であること!」


※トップ画像はレンブラントという名のガーベラ。1週間ほど前に買ってきて、仕事机の前に飾ってみた。まだ元気に咲き続けている。

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