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老いることは素晴らしい。

朝起きると、雨が降っていたので、僕はその音に耳を澄ませながら瞑想していた。ぽつぽつと窓を叩く音が自分をとりまく空間に振動を起こして、まるで自分の身体にふりそそいでるように感じた。

ハートがオープンになり、ハートの奥深いところに雨が貯まっていくように感じた。僕の胸は貯水池のように雨をためこんでいった。

僕は窓辺に座って動かず、十分ほど静寂を感じていた。用事があったので、僕は立ち上がり、生活に戻った。僕はまた「Naoki」としての人生に戻った。

ひとは瞑想をしている間━━静寂のなかに溶けている間、「私」という感覚を失っている。「私」はどこにもいない。「Naoki」はどこにもいない。ワンネスの「ただ一つ」の世界に溶けている。

今日は朝からずっと雨だったので、皆が外出しないのだろう、街がとても静かで、雨音だけが響いていた。それはヒーリング・ミュージックのように、僕のハートに降り注いでいた。

最近、人工的な音楽を聴かなくなった。雨音や小鳥の鳴き声のような自然音が僕にとっての音楽になった。

また、物語にも興味がなくなってしまった。映画や小説などのドラマ・ストーリーに感情移入できなくなってしまったのだ。男女の恋の駆け引きとか、勧善懲悪とか、特に登場人物の心理描写に心を惹かれなくなった。

その代わり、昔、強制的に学校で習わされた時、まったく分からなかった、芭蕉の俳句の魅力が分かるようになった。「蝉の声が岩にしみる」ってどういうことなんだろう?と思っていた。

でも、今は分かる。

芭蕉は蝉の声を内側で感じていたのだ。今、僕は雨音を聴きながら、この文章を書いているけれど、雨音は僕の内側に響いている。

雨は僕の内側で降っているのだ。

深い瞑想状態にある時、世界が自分の内側にあるように感じる。

そして、自分のハートが世界を包み込んでいるように感じる。

自分は老けたのかもしれないな、と思う。もっぱら飲むのは、白湯だ。白湯を美味しく感じる。長芋と醤油を混ぜ、それから鰹節を散らしたごはんを食べるのが一番美味しいと思う。

物欲もない。

お金を使うことと言ったら、本を買うことだったけれど、もう本を読むのも止めようかと思っている。僕が持っているのは、小説とか哲学、思想、そして、精神世界系なのだけれど、もう小説も読まないし、精神世界の探求も終わりに近づいていると思っている。

結局、悟りというのは、今この瞬間、ただくつろいで、宇宙の中に溶けていることだと体感として分かったからだ。

世界の中に溶け去って、宇宙全体が自分なんだと感じる時、自分という感覚すらもない。執着なんてない。ただ完全な静寂がある。

そういうわけで、昨晩、僕はせっせと某フリマ・アプリにて本を大量に出品した。でも、僕の持っている本はかなりニッチなジャンルばかりなので、たぶん、売れない。

あと、服もない。服なんてもう十年も新しいものを買っていない。大体、弟からもらう。弟はかなりイケていて、ファッションセンスもあるので、僕は弟が着なくなった服を恵んでもらっている。「おさがり」ならぬ「おあがり」だ。

そういうわけで、何が言いたいのかと言うと僕は今、急激に「老いている」ということだ。僕は今、ちなみに三十歳。これを若いと見るか、若くないと見るかはひとそれぞれだけれど、

僕は今、こんなふうに思う。

「老いることはとても素晴らしい!」と。

老いると若い頃のように元気に動き回れなくなる。その代わり、何もしないこと━━静寂を味わうができる。

確かに、二十代前半、あるいは十代の頃は体験することが何でも新鮮で、世界がキラキラして見えた。

でも、瞑想的な生活をしていると、若い頃よりももっと世界が新鮮に見える。

今この瞬間に完全にいることができると、聞こえてくる雨音を聴くだけで、うっとりとすることができる。毎日が新鮮で、たとえ、身体が老いてしまっても、「青春」を感じることができる。いのちをありがたく感じて、

生きているんだなって感じる。



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