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ハートの深い部分で僕たちはつながっている。

今年の正月、十年ぶりに従弟に会った。彼は家に来たとき、子供を抱えていた。父親になっていた。

久しぶりのぎこちない挨拶をして、おせち料理を親戚一同で食べていた時、テレビを点けると、サッカー中継が放映されていた。日本代表の試合だった。

僕とその従弟は離れた場所に座っていたのだけれど、彼の顔を見た瞬間、僕は自然に従弟の感情が分かった。僕たちは言葉を交わしてはいない。ただ、従弟の気持ちが分かったのだ。

そして、彼がもう少年ではなくなったということに気がついた。つまり、彼は大人になっていたのだ。

彼は幼い頃からサッカーに熱中していた。プロになることを望んで──。

父方の家系はスポーツマンが多い。僕だけ身体が弱く、運動音痴なのが不思議なくらい、いとこたちはスポーツに秀でていた。だから彼にも才能があったのだと思う。

でも、結局、十代で見切りをつけて、全く別の道に進み、しっかりと今は家族を養っている。

僕は成功したひとや夢を叶えたひとのサクセス・ストーリーよりも、求めていたものが手に入らずに、諦めてしまったひとの話を聴くのが好きだ。そこにはある種の哀しみがある。

そして、そういった類の話を耳にする度、僕のハートはひらくことになる。

丹田が臍の下にあるのは周知の事実だけれど、中丹田と呼ばれているハート・センターが胸のあたりにあることはあまり知られていない。

この場所はハートへの瞑想や、表現活動(詩を書くことや歌うことなど)、他者への思いやり、ヨガのポーズなどをするとひらいてくる。

愛を勉強するということが人間のこの星に生まれてくる大きな理由なのだとしたら──ハート・センターをひらくことはこの世で何かを達成することよりも、もっともっと重要だ。

ハートの愛は、大切なものを手放したり、諦めたりした時に顔を出す。

従弟がサッカー中継を観ていた時のまなざしには手放した者だけが持つことができる哀しみが宿っていた。

十代の前半でまだ若かった頃、従弟と僕は喧嘩ばかりしていたのだけれど、大人になった今、感じるのは、ただただ「ありがとう」という思いだった。

ハートをひらくというのは、共感するということだ。

別に僕は彼の心の中をのぞいて、思考を読み取ったわけではない。ただ、彼の目のなかにある哀しみに感情移入しただけだった。

人生上の挫折こそがハートをひらく。ずっと握りしめていた夢が叶わないのだと知ること。

その直後には、大きな悲しみが襲う。でも、その悲しみと一緒にいてあげると、あなたの胸にあるハートがいつか花ひらく。

それは何物にも代えがたい至福であり、自分の夢が叶って手に入るものとは全く別の種類のものだ。

世間的に成功したら、あなたは大勢の前──たとえば壇上でスポットライトに照らされて、美しく装飾された花束をもらうかもしれない。そして、その花束はいつか必ず枯れる。

でも、ハートの中の花はずっとあなたのなかにある。

その別名を愛と言う。

その花は枯れることがない。

そして、もし、あなたの近くに何かを手放したひとがいたら──そのひとの話を自分に起きたことのように聞いてごらん。

感情移入してごらん。

あなたのハートはそのひとのハートと共鳴し、互いのハートに橋がかかる。あなたがそのひとの話を聞いて涙するなら、あなたはそのひとのおかげで自分を失う。

あなたというエゴは消え去り、ハートの愛の中に溶けてゆく。そのひとの話をまるでバラードを聴くようにしてごらん。そのひとの話のなかに溶け去ってごらん。

あなたが他人の悲しみに共感すればするほど、「わたしとあなた」という境界線が消えてゆく。もうあなたはどこにもいない。

あなたのハートがひらけばひらくほど、あなたは他人の悲しみに共感し、ひとびとの話はまるでバニラのアイスのように甘く感じる。

共感は人間だけに起こるわけではない。

五年前ほど前の冬のことだ。

ひどく寒い夕暮れ、僕はある神社にいた。

閉門前で、何しろ寒かったから、参拝客なんて誰もいなかったので、声が聞こえるはずないのだけれど、僕は近くに生えていた木が「寒いよ」と言ったように感じた。

木が言葉を発したというよりは、木の感情が分かったのだと思う。人間だけではなくて、動植物にも感情がある。

動物の感情を理解できるひとは多い。でも、木や花にも感情がある。観葉植物や花は家の中のひとの感情をもらっている。彼らはある意味で人間よりも敏感だ。

まず、人間への共感から始めれば、やがて動植物の思いも分かり始める。もちろん、人間と動植物は言語でのコミュニケーションをとることが出来ない。

ではどうやって互いにつながるのだろう?

もちろん、それはハートを通してだ。

ハートの深い部分で僕たちはつながっている。

ハートの深い部分で全ての存在はつながっている。

椅子に座って、ただ静寂のうちにいる時、世界中のひとびとがハートに住んでいるのを感じる。

エジプトの砂漠を歩く駱駝、パリの空を飛ぶ鳩たち、チベットの僧侶たちの祈り──あらゆる存在が自分のハートのなかにいると知った時、もう個人的な願望を持つことは出来ない。残るのは世界への静かな愛だけだ。


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