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共産主義者、友人Kの想ひ出#9

淡路島の山奥の別荘。
日本酒一升瓶を側に置いて受話器を握る友人K。
10代に一升瓶は似合わないだろ。

電話は加世子に繋がったが、Kの願いは叶わなかった。
「今回やめとく」
そんなに同情心は湧いてこなかったがやっぱり残念な気持ちになったのを記憶している。

ブレィキングインマイハート
クラッシュ、ザ淡路島。
自虐的なフレーズを二人で並べてその夜は終わった。
Kが高校を辞めてから大検からの一流大学の路を歩こうと決めてからもその若い、常に湧き上がる肉慾、情欲と睡魔で集中できず、毎週のように電話をかけてきたり一緒に飲みに行ったりしていた。

ある日、淡路島から電話をかけて来てふざけててバカ話していた。
Kが突然、電話の向こうで言った。
「あっ!お前のオッチャンや!」
私はテレビのスイッチを入れた。
画面に映るのは私の間違いなく私の父の顔。

2年前の金銭絡みの事件で新聞に載ったが保釈中に逃げていたのだ。警察から「切符」が出ていたと言う事だ。地方に逃げずそのままアウトロー稼業を継続し大阪市内で行動していたのだから警察も気にいらないだろう。

40過ぎて入れたと言う父の背中の観音様を風呂で流してる時に父は少年院にかなり長く入ってた事や不良だった事等を話した。
8歳の時に家を出て行って12歳の時、母と離婚した。
それまでは大阪市で生まれ、母の故郷、福岡に行ったり、広島の保育所、小学校に一年だけ通って転校したりとにかく転校ばかりさせれた。

17歳くらいでなんとなく「あぁそういう事だったんだな」と気づき始めた。

父は懲役4年の実刑を受け収監された。

なかなか屈折した想定外の青年時代となったがこの記録は主役はスター共産主義者、友人Kであるのでいつかまたの機会で想起したいと思う。
こういったある種の不幸時代に友人Kやバカ岸たちとの友情も濃くなったのは間違いない。

同級生達がバブル期の大学生生活をエンジョイ、謳歌し輝かしかった時代、中卒のフリーターや高校中退したKもかなり偏った変形し鬱屈した暗い魂で過ごす数年間だったように想える。
聴く音楽も変わっていったし読まなかった本も読みだし映画、名作映画も観だし現実逃避するような毎日だった。

無学で勉強しなかった私は文学の事を算数みたいな「文法」の事だと想い込んでいたが、初めて読んでみた文学史上最高傑作と呼ばれる「カラマーゾフの兄弟」を読んだ時、こういうドロドロとした日頃思ってるような眼に見えない「いやらしい」「しょうもない」想念みたいなのを並べるのが一般に「文学」と言われているのをその頃、認識しだした。

一般に偉いといわれる作家や先生と呼ばれる人達はこんなふうな事を書いて偉人と言われているのかとも想念した。

名作映画やJAZZ、文学書に感化された私は20歳の頃、演劇学校夜間部に学ぶ事にした。
ロックスターボーカリストであった友人Kは「演劇」を学ぶ事自体に嫉妬し騒つくリアクションをした。

Kも名作映画鑑賞にもハマっており松田聖子からオードリーヘプバーンのマニアに変わっていった。
誇大妄想癖は治らず、スクリーン上のオードリーヘプバーンに恋心を抱き、いつか結婚するんだと言う訳のわからない話をよく聞かされた。

共産主義者マルキスト、一流大学を出て学生運動リーダーだったKの父はKにこう言った。
「20歳を超えてドストエフスキーを読み演劇を学ぶだなんて彼もなかなかインテリだなぁ」
と私を批評しKと議論していた。

当時の私はいかに生きるかを考えてそういった行動をチョイスしただけで「インテリ」という存在がどういうものかも理解してなかった。

「インテリ」というフレーズも部屋を飾る「インテリア」の事と思ってたくらいだし、
「インテリ」というフレーズは元新聞記者で最強一流レスラーのブルーザーブロディが試合前に「フォッフォッ」と叫びながらチェーンを振り回しながら入場してくる際、「インテリ」から「野獣」に変身するためにああいった奇声を発するのだという話をアナウンサーか記者かが言っていたのでその時初めて「インテリ」という言葉をその時になんとなく認容した。

露西亜のトルストイやドストエフスキーの文学書で肉慾や賭博より恐ろしいのが「虚栄心」という読み方が初めて見たとき読めなかったし米国のスタインベックの怒りの葡萄、この「葡萄」が読めなくて辞書を引くのが面倒くさく「ぶどう」なのに、かなり長い期間「しゅんぎく」と心の中で適当に読んでいた。

なかんずく一流大学卒で知識階級リーダー格のKの父をKは素直に尊敬していたし、その父が中卒労働者階級フリーターの私の青春の行為を「なかなかのインテリ」と評した事実によってしだいにKか私に対して断定し、脳内に構築していたヒエラルキーみたいなものは明らかに変化していった。

私が演劇を学ぶ行為自体に対する「嫉妬」がゆっくりと脅威、尊敬、絶賛、称賛みたいなものに変化していたように想える。

Kも父の学習塾を手伝いなが受験勉強に集中しだした頃、もう25歳になっていた。
そしてまた我々を震撼させた事件が起きてしまった・・・


                  続く。



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