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果樹園とは何か、守り手とは誰なのか––『果樹園の守り手』書評   

「図書新聞」11月19日号にコーマック・マッカーシー『果樹園の守り手』の書評が掲載されました。

図書新聞 (toshoshimbun.com)

「図書新聞」編集部の許可を得て、書評を掲載します。


                             

先が見通せないほどうっそうとした、深い森のような小説だ。何の予備知識もなく足を踏み入れれば道を見失うおそれもあるが、全体の構造がおぼろげながらもつかめてくると、そこが驚くほどの豊穣の地であることが見えてくる。だから、初めて読み終えた時と再読を終えた時では、本書に対する印象はがらりと変わる。ここまで変わる小説もなかなかないのではないだろうか。
一九三三年生まれで今年八十九歳になるコ―マック・マッカーシーは、ピューリッツァー賞をはじめとする数々の賞を手にし、ノーベル文学賞候補としても名が挙がる現代を代表する米国人小説家だ。だが、その作品が文学として優れているだけでなくエンターテイメントとしての面白さも備えていることは、主な著作が次々と映画化されていることからも明らかだ。『すべての美しい馬』や『ザ・ロード』、アカデミー受賞作『ノーカントリー』の原作者と言えばピンとくる映画好きも多いに違いない。
そのマッカーシーに多大な影響を与えたのが、二十世紀アメリカ文学の巨匠ウィリアム・フォークナーだ。フォークナーは実験的な手法を駆使したことで知られているが、そのフォークナーの手法を、マッカーシーはデビュー作である本書にふんだんに取り込んでいる。
まず、会話がカギ括弧(「」)で囲まれていない。改行もなく、地の文の途中でいきなり会話が始まることもある。そして時間軸が飛ぶ。注意深く読んでいかなければ、何がいつ、どこで起きているのかわからなくなる。ただしヒントはあって、太文字が出てきたら要注意だ。太文字が使われている部分は誰かの意識の中の言葉であり、回想の場合もあるからだ。また、誰がどういう人物であるかをわざわざ曖昧にしておく傾向もある。それから、長く詳細な情景描写が独特の生々しさをもって読者に迫ってくる点も、まさしくフォークナーの影響と言えるだろう。
一九三〇年代、大恐慌にあったアメリカではニューディール政策によって景気の回復が図られたが、この小説の舞台はそんな中央の動きの及ばない、同時に法の監視も行き届かない、テネシー州東南部の貧しい集落だ。若い男が通りがかりの男に乞われて車に同乗させるが、その男に襲われて逆に殺してしまい、山中の打ち捨てられた果樹園の穴に死体を放りこむところから物語は始まる。その死体を、犬と共に日々果樹園を歩き回る一人の老人が発見するが、老人はなぜか誰にも知らせることなく、ヒマラヤ杉で死体を覆い隠す。若い男はマリオン・シルダー、殺された男はケネス・ラトナー、老人はアーサー・オウィンビー。この三人をつないだ輪の中央に、ジョン・ウェズリー・ラトナーという少年がいる。ケネスの息子だが、父親が誰に殺されたかはもちろん、すでに死んでいることすら知ることなく、母親と共に父の帰りを待っている。そして、シルダーとオウィンビーに偶然に知り合い、社会のさまざまな面について学んでいく。
冒頭の不穏な空気があまりに魅力的であるため、思わず先へ先へとページを捲りたくなるが、ストーリーを追うだけではこの小説を本当に味わうことにはならない。なぜなら、この小説では人と自然が同等の重みをもって描かれているからだ。人にいくつもの側面があるように、自然もその色、形、においなどによって実にさまざまな顔を見せる。自らの意思によって動いているかのような描写も随所に現れる。それは単なる技法の問題ではなく、厳しい環境の中で人と自然の命の重さが等しいこの地に対する、著者の思いの表れであるかもしれない。
 本書のタイトルである『果樹園の守り手』の「果樹園」とはいったい何で、「守り手」とは誰だろうか。死体が隠されたあの果樹園とそこを見回るオウィンビーという意味があるのはもちろんだが、それだけではないだろう。最後に青年となって現れるジョン・ラトナーとその成長を見守った神、というような見方はできるだろうか。
本書を開き、深い森に踏み込めば、「果樹園」と「守り手」が見つかるのかもしれない。
 


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