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【Opera】神奈川県民ホール・オペラ・シリーズ2020 グランドオペラ共同制作『トゥーランドット』

 8月末からコロナ禍の中でも様々なカンパニーが試行錯誤しながらオペラ公演を再開させているが、グランドオペラ共同制作シリーズはプッチーニの『トゥーランドット』を上演した。「三密」「ソーシャル・ディスタンス」が叫ばれる中、本公演は、歌手のマスクやフェイスシールド着用なし、合唱もソリストと同じ舞台でパフォーマンスする、オーケストラは通常の深さのピットに入る(ただし管楽器の上方には天井が設けられていた)など、舞台の上に関してはほぼ通常通りのスタイルで行われた。関係者には並々ならぬ苦労があったのではないかと想像する。まずは「普通のオペラ公演」を鑑賞できたことを素直に感謝したい。

 演出は、これまで東京二期会の『ダフネ』『ファウストの劫罰』でオペラ演出に類稀な才能を発揮してみせた大島早紀子。前2作と同様、自らが率いるダンス・カンパニー、H・アール・カオスのダンサーを起用し、耽美的で説得力のある舞台を創り上げた。大島のすごいところは、ダンスがオペラという「音楽芸術」のひとつの「ファクター」になっていること。ただダンサーを出しました、踊りました、ではない、音楽のフレーズひとつひとつに身振りが完璧に呼応している。音が描き出すものを身体も同時に描くのだが、それが決して「重複」という印象を与えず、むしろ音楽の説得力をさらに増す方向に作用しているのだ。もちろんそれは、H・アール・カオスのダンサーたちの人間業とは思えない身体能力があってこそだろう。特にメインダンサーの白河直子の”超絶表現”には、今回も目を瞠るばかりだった。幕が上がると、舞台中央で天井から逆さ吊りにされた白河に思わず息をのむ。そこで役人がおふれを読み上げるのだが、謎かけに失敗した求婚者は首を刎ねられるというこのおふれのせいで、北京の街には屍が累々としている。この物語が、そうした「死」が支配する世界で繰り広げられるのだということを、宙吊りにされ痙攣するような動きをみせる白河直子のすがたは見事に象徴していて、幕開きの一瞬にしてドラマの世界へと引き込まれた。

 第1幕で民衆が月を待ち望む(月が出たらペルシャの王子が首を刎ねられる)シーンにおける、足がギリギリつく長さのワイヤーで吊られながら踊ることで、この世の生き物とは思えないような浮遊感を生み出す白河の動き。また、第2幕、トゥーランドットが3つの謎をカラフにかけるシーンで、トゥーランドットと同じ色味のドレスを身につけ吊るされた3人のダンサーが謎かけの音に合わせて動くところ。ダンスの効果がオペラの意味を重層的にみせることに成功していたシーンは枚挙にいとまがない。

 こうしたダンスの圧倒的なクオリティに比べ、歌手陣の出来にばらつきがあったのは残念だった。そんな中、トゥーランドットを歌った岡田昌子には大いに惹きつけられた。エキゾティックな美貌が「氷の姫君」にピッタリだったのにくわえて、ただ強いだけではない、非常に抒情的な表情をみせるトゥーランドットだった点が大島演出にとても合っていたと思う。しかし今夜の何よりの功労者は、当初予定されていたアルベルト・ヴェロネージに代わって指揮を務めた佐藤正浩だろう。音楽がドラマを語るというオペラの本質を押さえた解釈で、「これぞプッチーニ」という流麗な音楽を神奈川フィルから引き出した。

 「オペラは総合芸術である」というとき、それは第一に音楽、美術、言葉、そして舞踊が互いに有機的に結びつきひとつの世界を創り上げていること、そして第二に音楽がドラマを表現しているということを示している。それを忘れたプロダクションは、「オペラ」の名に値しないと私は思う。この『トゥーランドット』は、大島早紀子の演出と佐藤正浩の指揮をはじめ、二村周作の装置、朝月新次郎の衣裳も含めたクリエイター陣のクオリティによって、まさに望むべき「オペラ」だったということができるだろう。

2020年10月18日、神奈川県民ホール。

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