世界を救うのはだれ?〜【Opera】東京文化会館オペラBOX『子供と魔法』

 オペラ『子供と魔法』は、元々はパリ・オペラ座の監督ジャック・ルーシェが童話バレエの企画としてコレットに台本を書かせ、それにラヴェルが作曲した作品。ラヴェル自身「ファンタジー・リリック」と名づけており、いわゆる純粋な「オペラ」というよりはオペラとバレエの融合体のような作品となっている。1幕の短いオペラで、登場する人間は主人公の「子供」のみ。他は。ティーポットや安楽椅子や絵本のお姫様や時計や動物たち。キャストも子供以外はほとんどが複数の役を兼ねる。ストーリーはシンプルなもので、勉強しないため母親に罰を与えられた子供が癇癪を起こして部屋中のものを壊して回ると、それらが急に命を持って動き出し、子供にされた仕打ちをなじる。庭に出ると今度は木や動物たちが責め立てられ、ついに子供は力尽きて倒れてしまう。しかしケガをしたリスの手当てをしてやったことで、みんなが子供を助け、最後はめでたく子供は家に帰っていくというもの。

 今回演出を手がけた岩田達宗は、「子供」とは私たち「人間」そのもののことであり、傍若無人に周囲のモノを壊して回る「子供」に、地球上を我が物顔で破壊し尽くす「人間」の姿をみる。

いま人類は大規模な気候変動や人口減少、環境破壊、被人道的な兵器の使用などによって存続の危機に立たされている。世界と自然に逆襲されて切実な窮地に立たされている現代人のリアルは、100年前に書かれたこのオペラに描かれた子供の姿に重なる。

岩田達宗/演出ノート

 舞台上には大きなパソコンのモニタが設置され、安楽椅子やティーポット、絵本などはそのモニタ上にある。癇癪を起こした子供によってそれらはモニタから次々と消されてい陸、子供が「悪い子で自由! méchant et libre!」と叫んだ途端、モニタは真っ二つに割れ、そこからモノたちが命を持って現れることになる。庭に出た後も、子供はノートパソコンを片時も離さない(このあたりは現代人のわかりやすい戯画化だろう)。しかし、最後、自分がひとりぼっちだと嘆くあたりで子供はパソコンを手放し、そして傷ついたリスの手当てをしてやるのである。再び、演出家の言葉を引こう。

実は心に優しさを持つ子供が、苦しみの中で口にしたある言葉がやはり「魔法」となって、世界に心優しさを回復させる。そして自然の生き物たちが子供を救う。

岩田達宗/演出ノート

 その言葉とは「ママン!」である。岩田は前半のトークコーナーで「これを言われて戦争のスイッチを押せる人間はいない」と語っていたが、まさに「母なる存在」こそが人間性回復の鍵である、というのが今回の演出の肝なのだろう(「自由!」と叫んでやりたい放題やらかしていた前半の子供の姿との対比も感じられる)。

 ただし、舞台だけを観ていると疑問に感じる点もあった。まず冒頭部、母親は姿を見せず陰歌だけで子供を怒るのだが、その時「Bébé(坊や)」という呼びかけが字幕では「♂1号」となっている。子供が囚人服のような白い上下を身につけていること、パソコンに支配されているようなこととあわせて、これは一種のマザー・コンピューターのような、子供を支配・抑圧する存在としての「母」なのではないかと思った。最後に「ママン!」の呼びかけと共に母親は実際に舞台上に登場するのだが、その時の彼女がひどく無表情なのが気になった。仮に演出ノートから読み取ったように「母なる存在が人間性を救う」ことを主張したいのだとすれば、やはり最後に登場した母はにっこり笑って子供を抱きしめてやるべきだったのではないだろうか。現代社会による支配の中で名前を奪われた存在が、「自由」を求めて破壊を繰り返したことで他者も自分をも傷つけるが、最後には原存在としての「母」、その母からの愛、あるいは母への愛によって人間性を回復するという筋書きは、この作品に単なるおとぎ話ではない、新たな側面を拓くものである。それだけにラストの扱いは惜しまれる。

 さて、東京音楽コンクール入賞者への演奏機会を提供するという目的で始まった「東京文化会館オペラBOX」シリーズは今回で14回を数えるが(昨年はコロナ禍のためスペシャルハイライトとなった)、出演歌手全員が同コンクールの入賞者で占められるのは今回が初めてだという。11人の出演者はいずれも優れた表現力を持っており、改めて同コンクールのレベルの高さを感じさせた。中でも印象に残ったのは子供役のメゾ・ソプラノ富岡明子。第1回東京音楽コンクール声楽部門第1位受賞者で、すでに二期会会員として二期会の舞台やNISSAY OPERAなどに出演を重ねている。柔らかく響く声とフランス語の確かなディクションでこの役を見事に演じ切った。火とウグイスを演じたソプラノの中江早希は、いつも通り舞台に登場するだけですごい存在感を発揮する。これは歌い手としてのこの人の大きな武器だと思う。高音のコロラトゥーラも軽やかだった。お姫様・コウモリ・フクロウを演じた種谷典子は、今、二期会が大きな期待をかけているソプラノ。今回は特にお姫様のピュアな歌声が心に響いた。男性陣では小さな老人役のテノール小堀勇介が、声の表現、演技力ともに頭ひとつ抜けていた印象。個人的には、ティーポットと雨蛙役のテノール工藤和真の深く美しい歌声とコミカルな演技も印象に残った。

 ピアノは高橋裕子と巨瀬励起のふたり。内部奏法も用いつつ、オーケストラではないことの違和感をまったく感じさせない素晴らしい演奏だった。柴田真郁の指揮もきびきびとした中に、作品の持つウィットやユーモアを引き出すもの。合唱団は演技も多く大変だったと思うが、特に事前のワークショップに参加した子ども達が「プティ・レネット」として合唱に加わるスタイルに好感がもてた。

 ちなみにこのシリーズは前半にトークコーナーがあり、今回は演出家と指揮者が登場。トークの途中で黒岩航紀によるドビュッシーとフォーレのピアノ演奏があったのだが、いつもに比べてややこのコーナーの内容が薄い感じがした。また、やや重箱の隅をつつくようではあるが、司会者がドビュッシーを紹介するときに「印象派の作曲家」と言っていたのが気になった。すでに「ドビュッシー=印象派」という認識は正しくないということがいわれて久しい。一般にわかりやすくという心遣いはわかるのだが、であればなおさら、音楽史的に正しくない知識を伝えるのはいかがなものかと思う。いずれにしても、トークコーナーの内容はもう少し考えてほしい。

2022年9月25日、東京文化会館小ホール

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