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【Concert】テオドール・クルレンツィス指揮ムジカ・エテルナ


 話題沸騰のクルレンツィス指揮ムジカエテルナ来日公演。2日目のすみだトリフォニーホールを聴いた。

 後半のチャイコフスキーの交響曲第4番はなかなかよかった。多分クルレンツィスは、そこに書かれている一音一音を、なぜその音でなければならないのか、そしてそれはどのように鳴らされるべきか、徹底的に考え抜き、それをオケに徹底的に再現させているのだと思う。その意味でオケは正しく彼の楽器として鳴り響いていたし、彼の「やりたいこと」はきちんと表現されていたと思う(その点では「録音に及ばない」という評価を私は取らない)。
 例えばテンポが著しく速かったり、ディナーミクが著しく大きかったりするのは、この「交響曲4番」という曲でチャイコフスキーが何を表現したかったのか、についてのクルレンツィスなりの回答なのだと思えば納得できる。

 しかし、前半のヴァイオリン協奏曲はまったくいただけない。
 ソリストのコパチンスカヤは、極端な弱音を多用することで音楽を自在に操っているように「みせていた」が、その代わり作品に備わっている「様式」は完全に破壊され、さらに、チャイコフスキーの音楽においてもっとも重要な「響きの美しさ」は一切感じられない演奏に終始した。
 もちろん、様式を壊すことで生まれて来るものがあるのは音楽史が証明しているところだ。しかし、今日のコパチンスカヤの演奏からは、様式や「美」を犠牲にしてまで得られた何かがあったとは到底思えない。何より音程が悪いのが致命的だ。この手の「技巧」に走るのなら最低でもピッチは確保してくれないと聴くのが苦痛にしかならない。

 独自であることと、作品に備わっている様式を破壊することはイコールではないはずだ。ただ目新しいもの、人がやっていないことをやってみせるだけでは芸術の名には値しない。クルレンツィスが目指しているのは、決してそのような世界ではないはずだ。いや、むしろ彼は、作品が描こうとしているものを分析し、十分に咀嚼し、徹底的に解釈した上で具現化しようとする音楽家ではないのか。

 ただし、彼を「革命家」と呼ぶのはどうかと思う。彼がやろうとしていることはごく当たり前のことだし、これまでに彼のような音楽実践がなかったわけでもない(例えば、ピアノならグールドがずっと前にやっているし、アーノンクールだっていい意味での破壊者の側面を持っていたはずだ)。それと「ロックな」という形容詞もやめてほしい。今どき、ちょっと目新しい音楽が出てくるとすぐに「ロック」と呼ぶのは、はっきり言ってダサい。

 最後に、彼が指揮するオペラを実演で観てみたいとは思った。あの一種の「過剰さ」の音楽は、オペラの世界でこそ生きてくるような気がする。考えてみればムジカエテルナは歌劇場のオーケストラだ。

2019年2月11日、すみだトリフォニーホール。

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