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【Opera】NISSAY OPERA 2018『コジ・ファン・トゥッテ』(菅尾友演出)

 「女の貞操はアラビアの不死鳥のようなものだ」それなら男の貞操は?「女はみんなこうしたもの」なら男はどんなものなの?そもそも「女の貞操」を賭けの対象にするのも不愉快だし、浮気させるように誘っておいて、それに乗ったら手のひら返しで女「だけ」を責めるっておかしいよね?それでなんで最後に女が反省してめでたしめでたしみたくなってんの?男は全然反省しないわけ?

 と、『コジ・ファン・トゥッテ』を観るたびに後から後から湧き起こるこの反発、怒り。音楽が美しいだけに余計ムカつく。いったいこれをどう美味しくいただかせてくれるの?というのが、毎回私が演出家へ(勝手に)突きつけている注文なのだが、今回の菅尾友演出、たいへん美味しくいただかせていただきました。いや、本当に。以下、何をどう「美味しくいただいたか」をあげてみる(菅尾さんへのインタビューはこちらをご覧ください)。

 その1、設定。グリエルモとフェルランドはAIを研究するオタク学生で、フィオルディリージとドラベッラは彼らが作り出したAI搭載のアンドロイド、すなわちリアル「ディスプレイから出てきた俺の嫁」状態。しかもこのアンドロイドは、彼らが相手にすらされなかった実在の女性をモデルにしているというキモさマックス案件。序曲で実在の彼女たちにアプローチするシーンが展開されるのだが、グリエルモとフェルランド、勝手に写メ撮ったりして行動キモすぎ!なのだ。多分、ふたりには「なぜ彼女たちが自分を相手にしなかったのか」わかっていない。わかってないので自分に原因があるのかもとは微塵も思わず、かわりに優秀な頭脳を活かして三次元「俺の嫁」を作っちゃうのである。「俺の嫁」だから彼女たちは完璧に自分たちの好み通り。そして絶対に裏切らない。ところがそこにワルい大人であるところのドン・アルフォンソが横入りしてきて、「浮気しない女なんていないんだよ〜たとえアンドロイドでもね☆」とそそのかす。これならば、若いふたりが彼女たちを「だます」という計画に乗るのも頷ける。「変装して試す」という行動に説得力が生まれた。

 その2、ヴィジュアル。一応日本が念頭に置かれているものの、舞台は実在の東京そのものではなくデフォルメされている。その「フィクションとノンフィクションのバランス」を見事に按配していたのが、武田久美子による衣裳だ。ピンクやイエローのウィッグをつけたアンドロイドのフィオルディリージとドラベッラは、アニメキャラというよりもそのコスプレをした女の子たちを思わせるし、白衣っぽいもの(襟にゴールドの刺繍が施されている)の下に妙にアンバランスなシャツとパンツを身につけたグリエルモとフェルランドは、秋葉原にいるオタクをオシャレ方面にシフトさせたイメージ。完全にリアルでないことは、モーツァルトの音楽美を損なわない上でとても重要だったと思う(想像してほしい。これがリアルな「アキバ系」服装だったらすごーくビンボくさくて音楽の魅力が半減であろう)。舞台上では随所に映像がマッピングされるのだが、山田晋平の映像デザインも緻密さとファンタジーのバランスが素晴らしかった。特に、男子ふたりが必死でPCをいじりながらアンドロイドを作り上げていくシーン。点滅するデジタル信号を背景に、初音ミク風だったり、下着風だったり、ロボット風だったりする衣裳を身につけた女の子ふたりの姿が3DCG風の加工を施されてクルクル回る。女の子たちがお互いの恋人を思うシーンでは、今度は男子の方が映像になって回る。キャラクターに好意を寄せ、彼/彼女のことを思う時、脳内でキャラクターが「回る」という経験には覚えがある。キャラクターに好意を寄せる、という行為はかつてこそ「気持ち悪いこと」と排斥されたが、現在では特に珍しいことでもない。むしろ、草食男子とやらがクローズアップされ、現実の恋愛よりもキャラクターに没頭する若い男女が増えている現代では、キャラクターとの「恋」はごく当たり前になりつつある。つまりここで、男女ともに「回る」姿が可視化されることは、相手を「キャラ化」=「モノ化」してしまう現代的な「恋」のありようをも可視化しているのだ。

 その3、結末。『コジ・ファン・トゥッテ』最大の問題点であるラストにどう始末をつけるのか、が最大の焦点であることはいうまでもない。別の人との結婚誓約書にサインしたあとで、恋人が帰ってきたと知らされたとたん、フィオルディリージとドラベッラの動きはピタリと止まってしまう。第1幕、アンドロイドとして生まれたての時、ふたりの動きはいかにもロボット然としたもので、恋人のことを話していても、それは「そうプログラムされている」ことがわかるような型どおりの表現にとどまっていた。それが、別の人に言い寄られ、心が揺れ、恋に踏み出そうとしていく中で、ふたりはどんどん「ココロをもった実在の女の子」へと変貌していく。それが、この絶体絶命の場面で動きを止める。こんな事態はプログラムにない。アンドロイドはフリーズしてしまうのである。そしてグリエルモとフェルランドが目の前に現れ、彼らは彼女たちのプログラムを初期化する(ようにみえた。ここは違うかもしれない)。彼女たちは、「恋もすれば裏切りもする生身の女の子」から再び「言う通りになる俺の嫁」へと戻る。本来なら物語はここで終わり。しかし菅尾演出には続きがあった。いったん裏切った=壊れたアンドロイドは不要だ、とばかりグリエルモたちはふたりにビニール袋をかけて廃棄処分にしようとする。と、女の子たちは敢然と立ち上がり、銃を手にして銃口を男の子たちに向ける。驚き焦る男の子たち。女の子たちは銃を捨て、スタスタとその場から去っていく。幕。

 女の子は反省しない。ブラヴォー!そうだよね。浮気したのは悪いかもしれないけれど、それが「計画的な罠」だとわかった以上、反省する必要なんてない。むしろ、そんなに自分を信用できない相手なんか、私の人生には必要ない。一方で、捨てられたことで男の子たちは驚く。つまり「あれ、僕ら、間違ってたの?」という小さな波風が、彼らの内には確かに立ったのである。その波風をどう受け止めるのか。受け流してなかったことにして、今度こそ「絶対に裏切らない」高性能AIの開発にいそしむのか。それとも、「誰かに恋をする」ということの意味、すなわち生まれも育ちも何もかもが違う他人と対峙し、関わり合い、生きていく、ということの意味を真剣に考えるのか。それは、幕が降りた後のお話なので、私たちにはわからない。だが、ヒントはあった。

 ドン・アルフォンソの研究室には、フィオルディリージとドラベッラには遠く及ばない旧式のロボットが何体もいて事態をずっと見守っていて、カーテンコールでは当然、そのロボットの中の人たち(助演といいます)も着ぐるみを脱いで挨拶をする。そして全員が退場した後、舞台の真ん中には、脱ぎ捨てられたロボットの着ぐるみが積み重なったままになっていたのだ。その光景は確かに演出家が仕組んだものだろうし、私にはそれが、どんなにAIが発達しようとも、人はやっぱり人と恋をして生きていくのをやめない、という主張にみえた。それは、争いも差別も悲惨もなくならない世の中にあって最後まで失われてはならない「希望」だし、また何よりモーツァルトの音楽が常に「どんなに間違えようとも失敗しようとも、人間はだからこそ愛しい」と語っていることを思えば、作品の本質を伝える主張だと思う。

左から グリエルモ:加耒徹、フィオルディリージ:嘉目真木子、フェルランド:市川浩平、ドラベッラ:高野百合絵

 美味しくいただけた理由はもちろん他にも色々ある。若手で揃えた歌手陣は聴きごたえがあった。ある研究者の方から「『コジ・ファン・トゥッテ』はイキのいい若手バリトンを堪能するのに最適なオペラ」という至言を賜ったのだが、その言葉通りグリエルモを演じた加耒徹と岡昭宏はすばらしく響く美声で、存分に「イキのいいバリトン」を堪能いたしました。今回、ドン・アルフォンソとデスピーナはかつてグリエルモとドラベッラのような体験をした年長者、という解釈でベテラン勢がキャスティングされており、特にデスピーナの描き方がよかった。今までずっと、デスピーナがフィオルディリージたちと大して年の変わらない女の子として描かれるのに違和感を抱いていたのだが、酸いも甘いも噛み分けた「大人の女」なら納得できる。デスピーナは、最初「掃除のオバチャン」風の服装で登場。姉妹たちに「遊んじゃえば」とそそのかす第2幕でパッと服を脱ぐと、エナメルのベアトップという女王様スタイルになる。これが彼女の真の姿か!このデスピーナは、ラストで女の子たちに銃を渡す。つまり、自分の体験を通して若い女の子たちに「自由に生きなさい」と励ます「ロールモデル」になっているのだ。ある意味「影の主役」でもあるデスピーナ、若手では務まらなかっただろう。熱演した高橋薫子と腰越満美のベテランふたりには存分に拍手を贈りたい。

 本作は、中高生を対象にした無料招待公演「ニッセイ名作シリーズ」のひとつとして、2回の本公演に加えて中高生が鑑賞する3回の無料公演がある。「ニッセイ名作シリーズ」は2014年から始まったが、その前身は、50年あまりの間小学生をミュージカル公演に招待してきた「ニッセイ名作劇場」と、1979年から中高生をオペラに招待してきた「日生劇場オペラ教室」。若い人たちが「オペラの今」を体験できる貴重な機会であり、前回の佐藤美晴演出『魔笛』に引き続き日本人の「旬の演出家」を起用したのは本当に意味のあることだと思う。日生劇場にはこれからも、日本のオペラ文化を、特に若い世代に向けて発信する中心でい続けてほしい。

2018年11月10日・11日、日生劇場

写真提供:Lasp舞台写真株式会社


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