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ヴェルディ・バリトンの新星誕生〜藤原歌劇団『二人のフォスカリ』

 ヴェルディの第6作目のオペラである『二人のフォスカリ』が日本で上演されたのは、わずかに2001年に東京オペラ・プロデュースが行った1回だけだそうだ。この非常に演奏機会の限られた作品に藤原歌劇団が取り組んだ(新国立劇場と東京二期会との共催)。公演回数は2回。主要キャストを入れ替えたダブルキャストだ。これは2公演とも観なければ、と会場となった新国立劇場オペラパレスに足を運んだ。

 そもそもなぜこの作品があまり上演されなかったのだろうか。ヴェルディの創作時期では初期に当たる作品で、まだ自身の音楽語法が完全には確立されておらず、先輩にあたるドニゼッティに代表されるベルカント・オペラの華やかな装飾的な歌唱法が求められると同時に、のちのヴェルディ作品において顕著となる息の長いカンタービレなフレーズやドラマティックな表現も求められるという、歌手にとってはとても「難しい」作品だからだといわれている。父フランチェスコ・フォスカリ役の上江隼人に事前にインタビューをした時にも、「これほど難しい役はない」としきりに言っていたのが印象的だった。

 また作劇上の問題もあるようだ。フォスカリ一族を陥れる、いわば敵役としてロレダーノという人物が登場するのだが、彼の描き方が少々雑で、敵味方の対立や、そこから生まれる葛藤やドラマがほぼないのだ。だからフォスカリ父子の嘆きや怒りの原因が今ひとつよくわからず、(事前情報がないと)心情に入り込めないというきらいがある。

 だが、今回の藤原歌劇団公演を鑑賞して、そうした欠点を補ってあまりある音楽の素晴らしさに心を奪われてしまった。アリアやカバレッタは確かに装飾的な音符が多いが、それが単なる装飾にとどまらず登場人物の心の昂りや繊細な動きをしっかりと表現しているのは、『椿姫』のヴィオレッタのアリアをはっきりと予感させる。またオーケストラのエネルギーがものすごく、それゆえ筋立ての単純さをあまり感じさせない。これは、田中祐子のキビキビとして前へ前へとドライブする指揮の賜物でもあるだろう。2日間とも「オペラの音楽」を存分に堪能できたのは、この田中の指揮とそれに十分に応えた東京フィルハーモニー交響楽団の功績である。

 ソリストにとってはさまざまな面で重い仕事だったと思うが、当初の予想通り、上江隼人は十分にコントロールされた声でフランチェスコ・フォスカリを好演。ギリギリまで抑えた演技で、総督と父親という公私に板挟みにされる老人の苦悩を描き出した。上江組で息子のヤコポ・フォスカリを歌った藤田卓也は、少々浪花節的なメロディ運びが気にならないでもなかったが、明朗で輝きのある歌声を存分に響かせて情熱的なヤコポを演じ切った。

 しかし本公演でもっとも心に残ったのは、2日目にフランチェスコを歌った押川浩士である。当初、須藤慎吾がキャスティングされていたのだが、諸事情により交代。押川といえば、今年4月に上演された『劇場のわがままな歌手たち』でのマンマ・アガタの熱演が記憶に新しいが、こうした喜劇や、あるいは脇役が芸達者な歌手というイメージだった。実際、今回が押川にとっては初めてのヴェルディの主役だそうだ。おそらく相当の覚悟と準備で臨んだのだろう。元々美声の持ち主ではあったが、その声に奥行きと深み、さらには品の良さ(個人的にはヴェルディ・バリトンではこれがとても重要だと思っている)が加わって素晴らしい仕上がりになっていた。上江が徹頭徹尾抑えた苦悩を表現していたのに対して、押川は苦悩に苛まれながらももうこれ以上は我慢できないといった風に溢れ出てくる激情が心に響く。物語の最後、フランチェスコは息子を失い、あまつさえ総督という地位も剥奪されてしまい憤死するということになっているのだが、理不尽な運命に憤慨するというよりも、押川フランチェスコはすべてを受け入れた上で、息子の棺を抱きしめるように事切れる。「父の愛」というものを感じさせる見事なラストだったと思う。

 本公演を観た人であれば、押川浩士を「ヴェルディ・バリトンの新星」と呼ぶことに賛成していただけると思う。リゴレット、ジェルモン…これから押川浩士で聴きたいヴェルディの役はたくさんある。今後が本当に楽しみである。

2023年9月9日/10日、新国立劇場オペラパレス。

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