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脂の乗った歌手たちの競演〜【Opera】樋口達哉のオペラ『道化師』

 日本を代表するテノール歌手・樋口達哉がプロデュースするオペラ『道化師』。2019年にプレ・コンサートを開催し、翌20年に全曲上演が予定されていたがコロナ禍のために延期、さらに今年1月の上演も延期されて文字通り「三度目の正直」となった。10代の頃に『道化師』のカニオを歌うマリオ・デル・モナコに憧れて歌の道に入ったという樋口にとって、30年越しの「夢」が実現した瞬間に立ち会うことができた。

 もともとは非常に美しく繊細な声の持ち主。近年、だいぶ声が太くなって安定感を増してきていて、いよいよカニオを歌うべき時が熟したと感じていたが、その期待は裏切られることはなかった。奥行きと厚みが増した声は十分に“重く”、妻に裏切られる男の悲哀や慟哭を存分に描き出した。さらにそれだけでなく、樋口ならではの「新しいカニオ像」も感じることができた。演出の岩田達宗は、樋口が演ずるのであれば、マリオ・デル・モナコなど往年の名歌手たちが印象付けた「イタリアの土臭い大道芸人で荒くれ者の中年男」というイメージを払拭したいと考えたという。「芸術というものを突き詰めていった結果狂気に陥る男としてのカニオ」というアイデアを聞いた時、それは樋口達哉にピッタリだなと思った。1時間強の短い作品なので、そうした「新しいカニオ像」をドラマの中でじっくりと描き出す、というわけにはいかなかったものの、単に三角関係の果てに人殺しをしてしまう衝動的な人間ではなく、非常に純粋で繊細な神経の持ち主であるということは十分に伝わってきた。特に感心したのが、第1幕、村人から「トニオが妻のネッダにちょっかいかけるを」とからかわれたトニオが歌うアリオーゾ「そんな冗談は」。通常はカニオの嫉妬深さだけが際立つ曲なのだが、樋口はここで、嫉妬はもちろんのこと、ネッダへの愛や舞台で演じることに対する思いなど、細やかな感情の揺れ動きを表現してみせた。この1曲で「ああ、このカニオはとても繊細な人なのだな」ということがわかったのだ。

 岩田の演出は、作品を読み替えるのではなく、登場人物の奥底にある感情の揺れを丁寧に描き出そうとするもの。樋口はすべての場面でそれに応えていたからこそ、「新しいカニオ」が生まれることになったのだろう。もちろん樋口以外の出演者たちも皆、そうした繊細な表現を大切にしていた。ネッダの佐藤美枝子は本来であればこの役を歌う声ではないが、そこは常人離れしたテクニックと表現力の持ち主、見事にネッダを歌いきった。佐藤のネッダも、自分が本当に自由に生きられる世界に憧れながらも、トニオとの旅芝居の生活から抜け出せない、その間で苦悩しているのがよく伝わってきた。豊嶋祐壹は、ネッダから足蹴にされ復讐のためにカニオに不倫を告げ口するという、この物語の中では随一の「悪役」であるトニオのいやらしさ、惨めさと、その心の中に巣食う憎悪の恐ろしさを押し出して、ドラマの強い推進力となった。

 読み替えはないものの、全体として舞台はスタイリッシュな仕上がり。舞台上に、鉄製の横長なスペースを斜めに配置。階段を昇り降りすることで距離感を感じさせる仕掛けだ。天井からは下手寄りには道化師の人形、上手寄りには鳥籠が吊り下げられ、特に道化師の人形が始終ゆらゆらと揺れているのがまさにカニオの心の揺れ動きを代弁しているかのようだ。衣裳も、登場シーンのカニオは白いスーツにボルサリーノ、ネッダも真っ白なドレスに羽根飾りに帽子と、たいへんオシャレ。シルヴィオが真っ赤な革ジャンとジーンズでリーゼントなのは、紳士然としたカニオに対し自由の象徴としてネッダが憧れるのを視覚的にも表していた。紀尾井ホールというコンサート専用ホールを使ってここまで見事な舞台をつくり上げた岩田をはじめ、クリエイター陣の能力には感服させられる。

 佐藤正浩指揮のザ・オペラバンド・アンサンブルの演奏が素晴らしかったことも書いておきたい。通常よりグッとコンパクトな編成ながら、個々の楽器の音色が際立っており(コントラバスは1台だ)、しかも響きの豊かさはまったく損なわれていない。ヴェリズモの音楽がこれほど鮮やかに、美しく聞こえたのには驚かされた。佐藤正浩の見事な手腕を讃えたい。

 日本のオペラ界では世代交代が進み、樋口らが所属する二期会の公演でも若い歌手がキャスティングされ、今回の樋口やシルヴィオの成田博之らの世代がなかなか本舞台に立てない状況がある。今回、そうした「脂の乗った世代」の歌手たちが集結して、本当に聴きごたえ、見ごたえのある舞台をつくり上げてくれた。オペラの素晴らしさ、音楽の凄さを実感できるこうした舞台を、一回でも多く聴きたいと痛切に思った一夜であった。

2022年6月1日、紀尾井ホール。

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