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【Opera】METライブビューイング『ばらの騎士』

『ばらの騎士』は私にとって「特別なオペラ」だ。何がどう「特別」なのか、言葉でうまくいえないのだけれど、なんというか、この作品を観るといつも、心の奥にある「やわらかい場所がしめつけられる」気がする。それは、初めて実演で観た1994年のカルロス・クライバー指揮ウィーン国立歌劇場の来日公演のときからずっと変わらない。

特に「自分はもう若くない」と感じている人にとって、このオペラはとても「刺さる」作品だ。「もう若くない」ことを感じ始めている30代の元帥夫人。彼女は地位も財産もある貴婦人だが、夫との結婚生活は夢見たようなものではなく、今や年若いオクタヴィアンとの情事に身を任せている。しかし彼女はわかっている、彼がやがては自分の元を去っていくだろうということを。そしてそれは現実のものとなる…。

とても腹立たしく、また悲しいことに、現代でも女性の価値が「若さ」に置かれることは多い。もちろん、それは本当に軽薄な価値観で、そんな価値観に迎合する必要はこれっぽちもないのだけれど、年を重ねていくことへの恐れがないと言い切ることが私にはできない。「若く美しい」ことそれ自体の価値もさることながら、若さとは可能性の束であり、年を重ねることはその束を少しずつ手放していくことだ。だから誕生日がきて十の位が変わるたびに、ため息や、悲哀や、諦めが心を支配するのを止めることができないのだ(私は「女は若い方がいい」と言いたいわけではないし、また年を重ねてよかったことは本当にたくさんある)。

第1幕で元帥夫人はオクタヴィアンに向かってこう言う。

「…あるとき突然、時以外は何も感じなくなるの…時々、私には時がとめどなく流れる音が聞こえるのよ。」

一方のオクタヴィアンはまだ10代。年上の元帥夫人を熱烈に愛している、と思っているので、彼女から「いずれあなたは私から離れていく」と言われると、それが拒絶の言葉に聞こえてしまう。だが果たして、彼は第2幕で、婚約の証の銀の薔薇を花嫁に届ける使者「ばらの騎士」として訪れた当の花嫁、「若く美しい」ゾフィーと一目で恋に落ちてしまうのだ。実は第2幕には元帥夫人は登場しないが、不在であることでいっそう彼女の心の傷が身にしみてくる。「ほらごらん、やっぱり彼女の言った通り」と思いながら、どこかで、彼「だけは」何があっても一途に彼女を愛し続けるのではないか、というほんのかすかな希望が、見事に打ち砕かれる場面なのだ。

時はうつろう。そして愛もまた、うつろう。だがそれでも、愛を信じたい。どこかに「永遠の愛」があると思いたい。

『ばらの騎士』は、そんな「永遠にかなわない願い」を、あり得ないほど美しい音楽で描いたオペラである。ちなみに第2幕は、ゾフィーの婚約者であるオックス男爵が歌う、通称「ばらの騎士のワルツ」で幕を閉じるのだが、その歌詞はこうだ。

「私なしでは君にとっては毎日がとても長い、私といれば君にとって夜が長すぎることはない」

幕が降りた後で誰もが口ずさんでしまうほどキャッチーなメロディの裏にひそんだ残酷な毒。そう、「私がいなくても」君は毎日を生きていくし、夜は十分麗しいものになるのだ。美しく官能的な音楽が繰り返し突きつけてくるこの残酷な真実に、私の心の中の「やわらかい場所」はしめつけられ、しかしその音楽の魅力には抗うことができない。

さて、今回のMETの『ばら』はロバート・カーセン演出による新制作。カーセンは舞台をオリジナルの18世紀後半から第一次世界大戦前夜のウィーンに移した。第1幕、貴族である元帥夫人の屋敷は豪華で重々しい歴史主義のスタイル。対する第2幕、ゾフィーの父で成金のファーニナル家の客間は、当時最先端のウィーン分離派の装飾を取り入れている。文化様式の差が、元帥夫人とゾフィーのジェネレーションの差に繋がっているという、これもまた残酷な仕掛け。

カーセンの演出意図は、「戦争前夜」というところにあったようだ。その証拠にファーニナル家の庭には大砲が設置されている。ハプスブルク家が没落していく時代、全ての伝統的なものが滅んでいく景色を描くことで、オペラのテーマである「時のうつろい」をより強烈に感じさせようとするものだろう。しかし、ラストの仕掛けだけは感心できない。オクタヴィアンとゾフィーの恋を前にして、身を引く決意をする元帥夫人。三者三様の思いを語る世にも稀な美しさを持つ三重唱の後で、幸せな恋人たちの背後に大砲と共に人々が現れ、やがて全員砲弾に倒れて幕となる。「愛がどれほど美しかろうとも、すべては滅びる」ということを言いたかったのだろうか。しかしそれはオペラの中で充分に描かれていることであり、そんな風にご丁寧に絵として見せてもらわなくてもいい。いささか理に勝ちすぎていると感じた。

これを最後に元帥夫人から引退することを表明しているルネ・フレミングは、「中年に入る直前」という年代の女性の持つ、ある種の活気のようなものを感じさせる。そして、彼女が活き活きとしていればいるほど、その後にやってくる「老い」の影が際立つ。同じくオクタヴィアン引退を表明しているエリーナ・ガランチャは、もう出てきたときから「周りが見えない恋する男の子」。あれほどの美女が、女装する場面でどう見ても「男の子が女装している」ようにしか見えないのには舌を巻いた。

そして特筆すべきはギュンター・グロイスベックのオックス男爵だろう。従来、「好色な初老の男」という描かれ方をすることが多かったが、リヒャルト・シュトラウスは「オックスは35歳ぐらいの田舎者で、女たらしではあるが貴族然としていなければならない」と述べている。グロイスベックのオックス男爵は長身と整った顔立ちで、大人の男の色気を感じさせる。確かに粗野で礼儀知らずだが、先ほど述べた「ばらの騎士のワルツ」を歌い踊る姿はとてもかっこいい。人間味にあふれ、「今」を楽しんで生きる愛すべき男性。新しいオックス男爵像である。

ウィーンの『ばら』がヨーロッパ社会の貴族的な憂いと気品を強く感じさせる舞台だったのに対して、このMETの『ばら』はよりヴィヴィッドで、活力と新鮮さを感じさせる。「新時代のばらの騎士」と呼ぶべき出来栄えである。

2017年6月13日、東劇。

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