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小さなトゲ

 もっと自分の世界を広げたい、そんな思いに抗えず私はその扉を押した。手に持ったバッグが、書店の中に仕舞われた木製の看板に当たり、ガタガタと音をたてた。カウンターには見知らぬ男性が四、五人座っていて、薄暗いカウンターの奥にいた店主が、私に声をかけた。
「すいません、今日の営業はもう終わりました」  



 世界には色々な本屋がある。
 例えばシェイクスピア&カンパニーは現在もパリにある書店である。今は亡き二代目の店主は、貧しい作家や詩人たちに食事とベッドを提供していて、いつも店には数名の居候がいたそうだ。風変わりで人間くさいその店主の魅力のおかげで、多くの人が集まっていた。
 もうひとつ、コルシア書店も面白い。それはかつてミラノにあった書店である。政治運動に力を入れすぎて追放された神父が書店のリーダー格で、理想の共同体を夢見る友人たちや、ユダヤ系の一家、貴族出身の老婦人など色んな人が集まり語り合う場所であった。

 私にとってのシェイクスピア&カンパニーは、博識で風変わりで信頼できる店主がいる古書店がそれであり、もう十年近く通っている。
 では、コルシア書店はどこだろう。仲間と語り合える書店が欲しい。そんな場所があったら、職場で緩衝材的な水のように過ごす毎日にも耐えられる気がして。

 三月、映画「風よあらしよ」を観た日、偶然ある書店に立ち寄った。新刊も古本もあるセレクトショップで、五人程座れるカウンターでコーヒーも飲めるつくりだ。店主もたまたま映画を観たそうで、伊藤野枝や大杉栄の話で会話が弾んだ。そんなレアな話をする場所が見つかったのは驚きだった。別の日にはコーヒーを飲みながら本の話をし、店主は本屋を始めた理由など語ってくれた。私にとってのコルシア書店を見つけた!そう思えた。
 
 ラインを交換して、その店で開催している、ある勉強会の日時を聞いた。
「参加させてほしいです」とラインをしたのが勉強会の九日前。
「ぜひ、お待ちしてます!」と、すぐに返事をもらった。新たな一歩を踏みだす期待に胸が弾んだ。
 
 当日残業で遅くなったので、始まる五分前、少し遅れますとラインを送った。既読は付かなかったが、準備で忙しいのだろうと気にもしなかった。


「すいません、今日の営業はもう終わりました」 
「…あの、勉強会に来ると連絡していたはなですけど」
「あぁ!今日は先生が休みになったので、いつものメンバーで座談会をしてるんです。申し込みしてくださったのに変更の連絡してなかったですね。本当にすいませんでした!」

 座談会に加わりませんかという誘いを断って、再びバス通りまで足を運ぶ。午後八時半、雨の気配が身体を撫でる。ヘッドライトが行き交い、久しぶりに見る夜の街は明るい。だけど、心は、カウンターの奥のように薄暗かった。

 バスに揺られていると、お気に入りの草花模様のバックから、ラインの通知音が聞こえてきた。
「本当に申し訳こざいませんでした。次回来られたとき、店のコーヒーを奢らせて下さい。今夜の交通費もお渡ししますので、ぜひまた、お越しください」と、店主からのラインであった。

 その言葉に嘘はないだろう。心から申し訳なく思っているのは伝わってきたけれど…。でも、たった九日前にラインをしたのに、それを覚えていなかった事実は消せない。書店での会話は、店主と客としてだけでなく、人と人として言葉を交わしていたと感じていた。しかし、それは私の独りよがりだった。
 ラインには「また伺います」と、とりあえず返事を送った。

 新しい扉を開けようと、ひとり浮かれていた私。何度か訪れただけの客を、店主がそれほど気にしているわけもないのに。
(その扉を開けるのは、まだ早い。それほどの繋がりも信用も、あなたにはまだないんだよ)そう言われているようで。恥ずかしさと惨めさと、はしごを外された疎外感が、蜘蛛の糸のようにからみつき、思い切り手を伸ばせない。胸の奥にチクリと刺さる棘はいつか抜けるのだろうか。それとも、新しい扉も胸のトゲもただの幻なのだろうか。
 

 



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