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想像力

深夜、タクシーに乗って帰宅途中、道端に座り込んでいるおばあさんがちらっと見えた。

なぜおばあさんが、こんな時間に一人で? 
ひどく疲れた感じだったな。もしや徘徊? 
車を停めてもらおうか、でもここは停められる場所?

考えているうちにどんどん進み、ついに家の前。幸い近くに交番があることを思い出し、降りてすぐ駆け込んだ。
とはいえ普段、車に乗らない私は正確な場所を説明できない。
結局、管轄が違う地域だろうから連絡しておきます、となった。

しかしである。
私の説明できない場所を、はたしてこの警察官は説明できるのだろうか? 
気になって、再びタクシーを捕まえ引き返すと、おばあさんはもういなかった。

翌朝、ニュースやウェブで事故はなかったかと探し、何も見つからずほっとしたものの、心のもやもやはずっと晴れない。
四の五の言わずに車を停めて、ひとこと「どうしましたか?」と聞けばよかっただけなのに。

しなくてもいいことをする。
ということは、意外とハードルが高い。

コロナ禍の真っただ中に取材した、イタリア料理店オーナーの言葉を思い出した。
「〝やるべき〟ことじゃなく、〝やったほうがいい〟ことはしよう、と思うようになりました」

たとえば雨の日、濡れて小走りする人が見えたら、店のお客じゃなくても傘を貸す、とか。
これまでは、気の毒だなとは思っても、自分の仕事の手を止めてまで店の外へと出て行くまでには戸惑いがあったという。
第一、濡れている本人が望んでいないかもしれないし。

それでも気の毒だなと思ったなら、駆けつけたほうがやっぱりいい。
そして一度「そうする」と決めてしまえば、迷わなくて済む分、楽になると言うのだ。

もう何年も前の話だが、秋田で暮らす母が、冬の凍てつく道端で倒れたことがある。父も一緒だったけれど、老々介護ゆえに母を起こす力もない。
その時、通りがかった中学生の男の子たちが、母を背負って自宅まで運んでくれた。

東京に住む私は、後にその話を聞いて涙が止まらなかった。
見ず知らずのおばあさんを背負って、凍った道のりを歩いてくれたのだ。
彼らにも予定はあっただろう。
塾とか友達との約束とか、あるいは部活帰りでヘトヘトだったかもしれない。

いろんな事情があっても、彼らはたぶん「するべき」じゃなく「したほうがいい」気持ちで動いたのだと思う。

私は彼らの名前を知らないので、中学校の校長先生宛に、お礼の手紙を書いた。
〝あなたたちが助けてくれた人には、とても長い人生がある。私の母は、優しさも愛情も、全部他人に注いできた人です。〟
そんなような内容だったと思う。

私は、若い彼らに想像して欲しかったのだ。
自分の行動の向こう側に、どんな人生があったのか。その人だけでなく、家族の心を救ってくれたことも。

想像力。
それがこの地球を健全に回していく、手がかりの一つになるんじゃないかと思うのだ。
まあ、心と同時に身体が動いた彼らのほうが、そんなことはとっくにわかっているかもしれないけれど。

秋田魁新報 遠い風近い風 2024.1.20 

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