鹿の成仏
鍛冶屋であり猟師でもあるomotoのヤストさんから、その話を聞いてから、諏訪大社に行こうと思っていた。まさに、それが今日叶った。
鹿食免を手に入れた。
鹿を丸焼きにすることが増え、鹿肉を使うことが増え、料理をする身として、これは手に入れておかなければと思っていたのだ。
鹿食免は何かというと、鹿肉を食べても良い、という諏訪大社のお墨付きである。
仏教伝来以降、全国的に殺生が忌み嫌われる中で、人々は諏訪大社の発行するこの免状を授かり、諏訪の勘文を唱えることで、鹿肉を食べることを正当化したのだ。
(いつからか、なぜなのか、調べれば調べるほどに、諏訪の歴史はミステリアスでドツボにハマってしまったので細かくは割愛する。もう少し勉強が必要だ。)
仏教の教えに習い、寒いこの諏訪の地で、肉食を禁止されたならば、それは死活問題だ。寒すぎて作物もろくになかっただろうから。今だって、冬の長野は野菜が少ない。
食べることで成仏する。
それは人間本意のような気もするけれど、生きるためには食べなければならない。食べるという行為は、つまり殺生するということだ。
生き物の命をいただく。
生きるためには避けては通れない道。
この存在は、殺生をする心の痛みを、免状という形で癒している。とも言えるかもしれない。
そう、昔から私たちは、その呵責の中で生きているのだ。
そもそも、何かの犠牲を払わずして生きていくことなどできないのだ。
手を汚さずして、食べ物を手に入れることは本来はできなかった。
食べるために命をいただく。これは、当たり前の行為である。
何かが生きるためには何かは命を落とす。それは生命体としての基本。
しかし文明の発展とともに、それはどんどん見えなくなっていくけれど。
科学の発展によって、それはどんどん科学で証明されるものだけが正しいとされるけれど。
目に見えるものなんてほんのわずか。
殺生は、生き物を殺すことと辞書にあるが、
殺したものを食べて生きる。
そういうことでもあるのかもしれない。
となると、フードロスなんでご法度だ。
無駄死にということだ。これでは生き物も成仏できない。
2021.11.13
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