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幼い頃のわずかな記憶(幼稚園児から小学生になる)

花柄のおじさんが引っ越してきた頃、弟が生まれた。とても頭が大きかったんだと、私と一緒に写っている写真を見て思う。

私は生まれたのも2550㎏でその後もずっと小粒のまま。中学2年まで一番前に並んでいた子だった。

今でも小粒で・・・丸いの

ピカピカの1年生になった時には妹が生まれた。妹が出来たのがとても嬉しかったのを覚えてる。だって可愛かったから。

小学校に上がっても、近所には男の子の友達しかいなくて、遊びはいつも鬼ごっこやかくれんぼだったな。歩いて15分くらいの所に低い裏山があって、高学年生と一緒に6、7人で登って広場で缶蹴りをした。もちろん私が缶を蹴ることはなかったけどね。

あの裏山は子どもの足で登ると30分以上はかかったと思う。なんでわざわざ大変な思いをして登ってまであの広場で遊ぶんだろう?って当時は分からなかった。

今ならわかる それはその空間が

【子どもだけの世界だったから】

山の上だから「宿題終わったの?」とか、言いに来る大人もいない。だからしんどくても上まで登って、思いっきり走り回ってたんだね。

そんなに広くない広場の周りには大きな木が沢山あって、その木に隠れながら真ん中の缶を見ていた小さな私を思いだした。

思い出したらなぜか涙が出てきた、なんでだろ?

山を降りていく帰り道で、わらびやぜんまい、つくしを採ったり、どんぐりや栗も拾った。落ちている栗のいがを両足の靴で開くようにグイグイ踏んで中の栗だけを持って帰った。

山菜や栗を持ち帰ると「また採ってきたの?!」と呆れ顔の母だったけど、灰であく抜きをしたり、茹でたりして夕飯に出してくれて嬉しかった。

その頃は幸せな家族だったな

家の目の前には幅1.5mの水かさの少ない川が流れていて、60㎝幅の木の板が渡してあった。恐る恐る渡った先には平屋の倉庫みたいな建物と広い空き地があって、時々トラックが荷物を運んできたり、何人かのおじさんが来たりしてたけど、誰も居ない事が多く、そこも格好の子ども達の遊び場だった。

冬は、かまくらや雪だるまを汗だくになりながら造っていたな。

川縁にはタニシがびっしりとくっ付いていて、捕っては川に返すを繰り返していた。ある日、バケツいっぱいのおたまじゃくしを内緒で持ち帰り、蓋をしておいたんだけど、お察しの通り、どんどんカエルになって出てきて母に叱られた。

カエルさん、ごめんなさい

小さな私は、学校ではおとなしくて家ではおてんば娘と言われていた。確かにいつもどこかに擦り傷があった。

川に渡してある木の板を歩いて渡ればいいのに、なぜか自転車に乗ったまま渡ろうとして、何度も自転車ごと川に落ちてびしょぬれになっていた。

自転車ごと落ちる時はいつもスローモーションだった

友達と一緒に習字に通わされたんだけど、先生の家には畑があって、当時はトイレいや便所がまだ汲み取り式だったから、肥料は当然それをそのまま、使っていて。臭いが強烈すぎて習字どころではなく辛くて、母には「意地悪な友達がいるから行きたくない」と言って辞めた記憶がある。もちろん意地悪な子はいなかったから名前は言ってない。

子ども心にも「先生の家が臭いから嫌だ」と言ってはいけないと思っていた

3年生からはピアノを習いに行っていた。6年生まで習っていたけどもうほとんど弾けない。ただ基礎は出来ていたから助かったことがある。50代後半で受けた保育士試験の課題曲2曲は、ほぼ完璧に弾くことが出来た。

まずは右手から、次左手という感じで始めたのは言うまでもない

5年生の時にピアノの先生がとても綺麗な人に変わったんだけど、小学校の音楽の先生の奥様だったことが後でわかってビックリしたのを覚えてる。多分引っ越して来られたんだと思う。

そう言えば、放課後の器楽クラブに入っていたんだわ私


器楽クラブの事、もう少し思い出したら書きますね。

こんな私の話を読んで下さりありがとうございました❣





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