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DJ WADAヒストリー 復活編④(完結)

今度という今度は
忘れられてんじゃないかしら
と思いながらも
毎度毎度の忘れた頃のこんにちはです。

魔除けの逆柱的な感じで
わざと最後の1本だけ残して
未完にしてたわけじゃなくて、
(誰もそんなこと思っていない)
単純にいつものように忙しかっただけです。

まあ、その忙しかった分で
こんなよくわかんない状況下で
辛うじて(ホントに辛うじてだけど)
生きていられて
こんなものを
呑気に更新しているわけですが、、
みなさまはいかがお過ごしでしょうか?
それぞれの境遇で
過去に未来に様々な思いを
巡らせている事だろうと思います。

私も何も考えないわけではないのですが
とりあえずは、
色々気を揉みながら
無意味な時間をどうせ過ごすのならば
棚上げしていたやるべき事を…という事で、
いっちょ過去へと思いを巡らせ、
残り1本のところで滞っていた
WADAの話を更新します。

長めの文章を作ること自体が久しぶりだし、
これまでの内容はおろか
どうやって書いていたのかさえ
(雑に)思い出しつつの更新なので
様子のおかしいところも
多々あるかと思いますが、
良かったら暇潰しにでも
お付き合い頂ければ幸いです。

左耳の聴覚を失うという
身体的機能の変化により
己のエゴと向き合い
それを貫く方向へと
新たに舵を切り始めたWADA。

新たな方向を模索し始めて間もなく
そんな彼の退路を断つかのような
出来事が起こります。

先の記事で書いた
「Final Resolution」の制作より
少し遡りますが
彼がDJ復帰を果たしてから
わずか3年弱後の2005年12月、
12年もの間
ホームグラウンドとして
活動した場所であり、
Co-Fusionとして、DJ WADAとして、
アーティスト活動の苦楽を共にしたクラブ、
『maniac love』が
閉店することになります。

この時の彼の心情やいかに?
片耳を失ったばかりの彼には
泣きっ面に蜂よろしく
さぞかしショックだったのでは?
と思って訊いたところ、
これをずっと読んでくれている方には
まぁ察しがつくかと思いますが、
安定の「覚えていない」という
期待外れの言葉が返ってきました。

とりあえず、
閉店することを知って
驚いたり衝撃を受けた、
という記憶はないらしいので
正式に閉店を知らされた時点では
おそらくなんとなくは察していたか
それらしきことを
すでに耳にしていたのでしょう。

ただ、営業の最終日、
入場制限によってできた
お客さんの長蛇の列をみて
全員の希望に応えることができないことに
すごく胸が痛んだのと
TOBYさんのDJに感傷を覚えたことは
記憶にあるみたいで、
あとはどこか他人事といえば
語弊があるかもしれないですが
自分の事としての実感が湧かず、
ただ傍観しているような
そんな感じだった気がすると
本人は言います。

その他、自分のプレイや
彼にとっての最後の瞬間などは
殆ど思い出せないそうで
私、個人が思い入れがあったハコなだけに
(世代ですからね)
ちょっと薄情に思わなくもないのですが
WADAにしてみれば
当時はまだ復帰した直後、
自分自身ですら仕事を
継続できるかどうかわからない、
真っ暗闇の崖っぷちを
わずかな灯を頼りに
少しずつ足元を探りながら
歩んでいるような状況で
今、目の前のミッションを
どうクリアするか以外のことを
顧みる余裕なんてなかったし、
ディスコ時代からここに至るまでにも
たくさんのお店や人との
出会いも別れも経験した彼にとっては
悲しくはあるものの
人生の節目に起こる出来事の
ひとつにすぎなかったのかもしれません。

左耳の聴覚にはじまり
『maniac love』という活動拠点、
プレイスタイルが変わったことによって
離れていったお客さん。
仕事の量に比例して激減する
生きていくためのお金。
長く一緒にいた当時の彼女との別れ。
ついでに言えば、
中学生の頃離れてから疎遠になっていた
父の病の発覚と死。
思えば2003~2008年の5年間は
彼にとっては喪失の5年間でした。

あまりに次々に起こる別れに
先の『maniac love』閉店に関する記憶然り
この頃の彼には悲しみを味わう余裕なんて
殆どなかったみたいですが、
逆にそれが幸いだったのもしれませんし、
悲しいという感情に蓋をしたこと、
そして忘れることは、
彼が生きていくための
自己防衛本能だったのかもしれません。

しかし、これらの喪失期間は
単にドン底に落ちただけというわけではなく
悲しい出来事の傍らで
もちろん、変わらず彼を支えてくれる
友人・知人やお客さんも少なからずいたし、
失ったものと入れ替わるかのように
新しい出会いなどのポジティブな出来事も
起こり始めていました。

『maniac love』の閉店と同時に
長年レジデントを務めたパーティー
「CYCLE」はなくなってしまったけれど、
閉店する少し前から
同じく『maniac love』でスタートし、
WADAもレジデントとして参加していた
「moments」というパーティーは
西麻布『colors studio』に
ヴェニューを移して継続させていたし、
『maniac love』で第4金曜日に
行われていた「ignite」というパーティーが
渋谷『module』に移ったのをきっかけに
新たにレジデントとして
加わるようになりました。

「moments」は
WADAの所属するSublime Recordsの
Satoshi Endo君
オーガナイズ兼レジデントのパーティーで、
スタッフもお客さんも
これまでWADAの周りにいた中でも
若い世代〜少し下までの
DJやトラックメイカーを中心とした
いわゆるクラブミュージック慣れした
玄人ウケのするものでした。

かたや「ignite」はさらにもっと下の、
WADAからすれば
自分の子供と言っても
過言ではないほど若い、
クラブミュージックや
クラブそのものの楽しさに
今まさに目覚めはじめたかのような世代に
オーガナイザーのYoshieさんや
DJ KAZU君が
“本物”を体験させたいということで
WADAを迎えてくれた
フレッシュなパーティーでした。

この両パーティーに
少しの時間の差があるにしても
ほぼ同じ時期に関わっていたことは
今後数年間の彼の活動に
大きな助けとなりました。

「moments」では
これからのシーンを牽引していくであろう
アーティスト達からの刺激を受け、
「ignite」では若い世代の
ピュアさや熱に触れることで
新鮮さを味わうとともに
その交流により、
新たな支持層を得ることになりました。

こうして、彼は
人生のひとつのタームを終える
痛みを感じながらも、
新たな環境で新たな刺激に触れながら、
片耳だという肉体的な部分と
新たな表現を模索することへの不安という
精神的な部分の両面において脆弱化していた
アーティストとしての自信を奮い立たせ
先の「Final Resolution」に繋げます。

さて、その「Final Resolution」。
手法もさることながら
マスタリングに至るまで、
WADAのエゴを貫いてできたアルバムですが
前回の記事に書いた通り、発売前は
関係者を困惑させた問題作。
しかし、いざ、発売されてみたら
様々な人たちが尽力してくれた
プロモーションの結果、
作品と時代感との調和、
もちろんDJ WADA名義の
初のソロアルバムということへの
ご祝儀的な意味合いもあっただろうし、
先に書いた新たな支持層の
応援もあったのでしょう
様々な好条件が重なって
意外にも世間にはすんなりと受け入れられ…
というよりも、
「WIRE 08」や
「METAMORPHOSE 09」などの
ビックフェスへの
ソロ出演のきっかけになったり
Remix誌2008年の
ベスト・テクノ・ディスクに
選出されるなどの
想像以上の高評価を得る結果となりました。

今、この時のことについて
彼に訊ねても
評価を得たことよりも
復帰してからずっと模索し続けていた
自己の新しい表現が
何かしらのひとつのかたちにできた
ということに達成感を感じていたので
評価に関しては、
「ありがたいけど、そうか。程度にしか
 思っていなかったと思う」で
細かいことはお得意の
「覚えていない」を発動していました。

しかし、この作品が
ここまでもやもやと燻っていた
DJ WADAというアーティストの火を
世間的に再び勢いづかせたのは確かで、
その勢いのまま翌2009年10月、
片耳になってからこれまで
コツコツと作り溜めた自身の音源と
Co-Fusionの相方のTANIさんや
A-Inc、Shane Berryなどの
懇意にしていたアーティストの共作を含めた
DJ WADA名義では2作目のアルバム
「ONE」のリリースで
彼は、彼なりに納得のいく
新たな“DJ WADA”を
ひとつの形にしてゆくのです。

こうして、一時は引退も考え、
周囲の支えで復帰はしたものの
思うようにはいかず、
試行錯誤しながら
何年も新たな道を模索してきた彼、
ここに来てようやく、
苦難のトンネルを抜け、
本当の意味での新たなタームへ
一歩踏み出せたわけですが
この一歩が、その後どうなったかは…
うん???どうなんだろうね?

とりあえずはその後も
そんなに大きくはないものの
変わらず
山あり谷ありしながら
細々とながらも
未だ現役でDJを続けられているし、
これは、彼の体が動くかぎり
ずっと続くのだろうけど、
新しい何かを探し続けて
作品を作り続けている、、
(この頃あたりから活動休止していた
 Co-Fusionも昨年復活したしね。)
ということで。

そこは現在の、
できればこれからの
WADAを見て
ここを読んでくれている方が
それぞれに感じて
いただければと思います。


彼が「年齢を重ねて、
自分が覚えている昔のことが
本当にあったことか
自分の想像の中で作り上げちゃってるものか
よくわかんなくなる」なんていうから
少しでも覚えていることをメモしておこう!
でもどこかに公開とかしないと
絶対書かないし、
ちょっと気になるnoteを試すついでに
noteでやるか。
なんてノリで始めた
この「DJ WADAヒストリー」ですが、
まぁ、2010年あたりまで来ると
さほど昔ではないし、
(10年前が昔じゃないっていう感覚、
年齢を感じて嫌だね!笑)
もう彼が覚えてなくても
私が覚えていることの方が多くなるので
メモの必要はないかな?
何より、ここから先は
現在進行形だしね、なので
一旦、この「昔話」は
ここで終わりにしようと思います。

まさか書き始めの頃は
ここまでたどり着くのに
こんなに長くかかるとは思ってなかったし、
(怠け者だっただけですが)
どうせ途中で飽きて
投げ出すとばかり思っていたんですが
とりあえずではありますが、
ここまで書けたのも
思いがけずたくさんの方に
応援してもらえたが故だと
感謝しきりです。

本当に思いがけずだったので、
心の準備が間に合わず
いろんな方からリアクションを貰うたびに
尻がむず痒かったのですが(笑)
音楽好きのいち男性の、
10代初めから50代初めくらいまでの
約40年間の
ちょっと一般的とは言い難い半生を
なぞる作業の中で
私も色々と感じるものはありました。
まぁ、それが何だったかを言ってしまうと
ますます尻がむず痒くなってしまうので
割愛しますね。

読んだ人がどう感じるか、
また、何も感じないかは
それぞれ自由だと思っていますし、
時代が違いすぎて、
彼の生き方が
誰かの参考になるとも思えません。
それに、誰かの心に
何か一石を投ずるほどの力は
私の文章にあるとは到底思いませんが、
彼のこんな半生を
面白おかしく垣間見てもらうのもよし、
希望とするもよし、反面教師とするもよし、
こんな状況下で
ささやかでも誰かの何かしらの
お役に立てたら
これ以上嬉しいことはないです。

今後、この一連のシリーズや
私のnoteのアカウントは
まだどうしようかと考え中ですが
とりあえず、アカウントはこのままにして
また、何か思いついた時なんかに
昔話に拘らない記事でも画像でも
あげられたらと思っていますので
その時は、気が向けばでいいので
読んでもらえたら再び嬉しいです。

それでは、
こんなところで私なんかが
書いても仕方がないんだけど、
ちょっとだけ自己満足で最後に。
今回のこのコロナ騒動下で
一生懸命に戦ってくれている
医療従事者をはじめとする
エッセンシャル・ワーカーの方々、
見えないところで頑張っている
全ての方々に感謝を込めて。

この状況はまだ少し続きそうですが
みなさまもお身体御自愛ください。
来たるべき(かもしれない)
新たな時代を謳歌するために!

改めて、約5年弱、
この「DJ WADAヒストリー」の
ご愛読ありがとうございました。

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