いのち
3月末を振り返ると、とにかくすごかった。
私のなかでなにかが変わっていく感覚が、つねにある。
日々蓄積する、そういう小さなものが、日常のしあわせやたのしさ、平和のなかではハッキリと変わった!というエッジを立てないのだけど
こういう、本物の、いのち。
衝撃をうけると、胸が本当に動くと
すでに自分は変わっていて
人は自分のいのちの使い方を考えるのだ。とても冷静に、そして情熱的に。。
そして、これはやる、これはやらない と
胸がはっきり答えを言うようになるのだ。
どんなにちいさなことも、難しかったことも、ハッキリとする。
自分のいのちの得意なこと、テーマ
やらなくてよく生まれたこと、不得意なこと
それをちゃんと見定め、自分でそれを使っていくことは
単なる自己実現や、人生を成功させるという言葉とはまた切りはなして考えるべきなのだ。
全然テンションが、ちがうの。
もしあなたが「こういう風に生きたい」とがんばっていることがあるならば、それが大きな目線に立ったとき、どうでもよくなってしまうような。
もっと、願望もなく。
世界の情景をありありと見たときに、なにをすべきかは浮かび上がってくるものなんだ。
次の手が勝手に浮かび上がってくる、そんな感覚になる。
こうしたい、ああしたいと考えている日常は実は別の時間軸にある。ときに、その日常をていねいに生きるより、外に飛び出していって世界をありありと見るということが大切だと感じる。
"いのち"という存在そのものの介入はこんなにも日常を変えてしまうのかと、今でもハッとさせられる。
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