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【卒業課題合格】人生折り返し地点で、ポジティブに病と人生に向き合うには~西加奈子『くもをさがす』

前回の書評『くもをさがす』のリライトです。前回は不合格でした・・・
お時間があれば、読み比べてみてください!



人生100年時代と言われる昨今、50代と聞いてあなたはどんなイメージを持つだろうか。
人口の半数が50歳以上となる世の中で、ポジティブなイメージを持てる人は少ないのではないかと思う。

かくいう私も、今年50歳になる。気になって調べてみたのだが、「中高年」という言葉、中年は30代から40代を指し、50代になると高年と呼ばれるようになってしまうそうだ。さらに、「シニア」という言葉も同様に使われているらしく、私もとうとう「シニア」なんて呼ばれてしまうのかと思うと、ぞっとする。これまでの50代、ステレオタイプに強烈な「違和感」を感じているのは、どうも私だけではないらしい。私自身、この「違和感」だけではなく、母の喪失体験が、年齢を重ねることを苦痛にしてきたのだ。


1.私を苦しめてきた、47歳の呪い



私の母は、私が20歳の時に 47歳で亡くなった。胃ガンだった。スキルス性胃ガンは、まだ若かった母の体をあっという間にむしばんでゆき、ガンであることがわかってからわずか3年であっけなく死んでしまったのだ。

今から30年程前、ガンが不治の病であった頃の話だ。

母の場合は、発見が遅かったこともあり、手術をしても病巣を全て取り切ることができなかったのだそうだ。その後、腹膜から全身に転移したがんにより、母は帰らぬ人となった。

私の祖父も、ガンを患って亡くなった。何となくではあるが、「私の家系は、ガンにかかる家系なのだ。」と思い知らされた。

母の闘病中、亡くなってから読んだ小説は、どれも「ガンにかかると最後は死んでしまう」話ばかりだったように思う。

愛する人にガンを告知する場面、抗がん剤で髪の毛がごっそりと抜け落ちる場面。そのうちに痩せ細り、食事さえも取れなくなってしまうのだ。最後は、愛する人たちと別れ、亡くなってしまう結末が待っている。

母の最期は、まさにそのストーリーそのものだった。私の母も、同じように衰弱し、死んでいったではないか。私の中にいる母は、いつまでも47歳であり、病室で細く小さくなった母の骨張った背中をさする私の手にその感触はうっすらとだが残っている。

母の闘病中、一人っ子だった私は父と交代で看病し、付き添った。大学生になったばかりの私は、地元の大学に通いながら、母の入院先の病院へ通った。楽しく大学生活を送る友人を尻目に、私は助かる見込みのない母の看病を続けている。母にきっと治るからと嘘をつき続けることも、とても辛いものだった。

病院独特の匂いが、自分に染み付いてしまっているような気がした。毎日弱っていく母をこの目で見なければいけないことも、治らないことを隠して、励まし続けることも、私の心を弱らせていくのに十分だったのだ。

「早く楽にさせてあげたらいいのに。」
そんなことを思ってしまう自分が嫌だった。母親の死を願ってしまう私は、なんてひどい子どもなんだ。

母に生きて欲しいと願うことと、早く穏やかな死を迎えさせたいという気持ちの間で私はもがき苦しんでいた。

だから、私も同じ目に会うんだろうな、と思い続けてきたのかもしれない。
ひどいことを言ってしまったり、考えてしまった報いが、きっと来るだろうと恐れていた。

「自分はいつまで生きられるのだろう。」
私も47歳になったら、母と同じ病気で死んでしまうかもしれない。この言葉は、呪いのように私を怯えさせ続け、誕生日を迎えることが本当は怖くて仕方なかったのだ。

47歳を超えてもなお、残り続ける不安は何なのだろう。
私は一生この重たい感情を抱えながら生きていかなくてはいけない、と思いこんできた。

2. 年を取ることにネガティブでひねくれた私を変えた、「運命の1冊」との出会い

年齢を重ねることに前向きになれなかった自分を変えてくれたのは、この本との出会いだった。

西加奈子『くもをさがす』

人気小説家西加奈子が、乳がんになった 異国の地カナダで。コロナウイルスが世界中を苦しめた3年間、乳がんの闘病を赤裸々に綴ったノンフィクション。発売後即重版が決定し、各種メディアでも取り上げられている話題の1冊だ。

著者の西加奈子は、『サラバ!』で2015年直木賞を受賞、ベストセラー作家として順風満帆とも思えた生活を送っていた。しかし、現状の生活に疑問を持ち、日本を離れ、家族と猫と共にカナダのバンクーバーへ移住。子育てをしながらの語学留学中に、乳がんが見つかる。

「死んだばあちゃんが、くもになった」

ここまでの試し読みをした直後、買ってすぐ続きを読みたいと思った。電子書籍ではなく、紙の本が欲しかった。すぐに書店へ走り、平積みになっている本を購入し、貪るように一気に読んだ。

これまで私は西加奈子作品について特段の思い入れはなかった。良い作品、中高生におすすめできる作家ではあるが、自分が熱烈に共感できるような作品に出会っていなかったのだ。

でも、である。

私は、この『くもをさがす』を読んで、西加奈子という人が大好きになった。


3. ガン=不治の病、生きられない「宿命」を覆した彼女の生き様


私にとって、「ガン」という病は、死ぬ運命にある病であった。

母が死んでいったように、私も真実を告げられないまま死んでいく運命なんだろうな。諦めとも悲しみともつかない、漠然とした不安を抱え続けて私はこれまで生きてきた。

しかし、西加奈子は違った。

「ガンとは闘わない。なぜなら、それは単なる病気なのであり、治療をすればいいだけなのだ。」

そう言い切って、彼女は自分らしくポジティブにガン治療に向き合い、やりとげた。

乳房を失うことは、怖いことではない。「おっぱいなんて、もう使うことはない(笑)」と言い切った彼女の言葉に妙に納得し、勇気をもらった。女性特有のガンを取り去るというのは、女性のアイデンティティを失うことなのかもしれないと私は思い込んでいたのだ。

失うことが、怖かった。

でも、よくよく考えてみれば、もう使わないものだし、それを失ったからといって「私」が「私」ではなくなる訳ではない。

ガンになっても、生きていられるという希望。ガンになっても、その人らしくいられるという希望。そして、ガン=負け戦というラストの定説を書き換えてくれた希望。

ガンに罹ったからといって、死ななくてもいいんだ。治る病気でもあるし、自分の人生を、自分らしい生き方を諦めなくてもいいんだ。

ガンサバイバーとして、不安と向き合うことも、ごく自然なこと。ネガティブな感情もそのまま受け入れ、「それが私」と大きく捉えて生きること。

この本との出会いは、私にとてもとても大きな希望と、気づきを与えてくれたのだ。

4.「遠くの親戚より、近くの知り合い」ドライで暖かな、理想の支え合い


学生時代に留学したカナダの雰囲気を感じられたことも嬉しかった。

私は、大学時代に短期ではあるがカナダに留学していたことがある。その時にお世話になった方々は、みな一様に「関西弁を話すカナダ人」のような印象だったことを思い出した。
あの独特の距離感、気にかけ感が、登場人物たちのそれとなんとも言えず似ているのだ。

カナダの看護師や病院スタッフが関西弁を話すことも「あれ?」と思われる人もいるかもしれない。が、私のカナダでの生活を思い返すと、ごく自然な日本語として捉えることができた。

様々な人種が互いを尊重し、助けあう社会であることを、カナダの人々は誇りにしてきた。モザイク社会、と表現されていた記憶がある。「人種のるつぼ」=サラダボウルという表現に対して、カナダ社会は、文化的モザイクと言われている。ダイバーシティという言葉が聞かれるずっと前から、カナダはそのような社会を形成してきたのである。

ひと昔前の日本で見られた助け合いの精神が、カナダでは脈々と生き続けている。
日本は「情」、カナダは「愛」。
この表現を読んだとき、胸がスカッとしたことが忘れられない。

このエピソードだけではなく、私たちの抱く社会の様々なモヤモヤが、西加奈子のレンズを通して意味と言葉を与えられてゆく。その爽快感たるや、のどごし爽やかな真夏のビールそのものであった。

もし、西加奈子氏が日本で乳がんの治療・闘病をしていたら、こんな雰囲気の作品にならなかったのではないかと思う。彼女は、私の4つ下の年齢ではあるが同年代であり、現在も子育て中であることも親近感を抱くところが大いにあった。

病気になったとき、自分の家族や子どもをどうするか、仕事をどうするか、本当に治るのか、死ななくてもいいのか、ガンを患い、克服した本人にしかわからない経験や心持ちを、正直に、勇気を持って、包み隠さず文章にする。その言葉の力強さ、優しさ、そしてユーモア。

西加奈子という人は、本当の物書きなのだ。

最後のページを読み切ったとき、私は心の底からそう思った。

5.そこには、どんな人にも勇気と愛を与える言葉がある


「あなたは、あなたでいいんやで。」

読んだ後に私が感じたことだ。20歳で母を亡くしてから、ずっと振り払えなかった呪縛を、すっと取り払ってくれた。そんな気がした。
西加奈子という人とその周りの人たちの文章から伝わる「愛」が、私を大きくハグしてくれたかのような暖かさを感じたのだ。

年齢を重ねていくたびに、窮屈になっていく私たち。年相応という言葉がある裏で、外見だけ繕うために大切な何かを誤魔化そうとしていないだろうか。○○見え、という言葉に、私たちの価値観は振り回されていないだろうか。

それはものの見方、考え方の軸が「他人」にあるということ。

その対極にあるであろう本当の価値観というのは、本来の私の立ち位置から見えてくる景色の中にある。「私」はどこにあるのかを見失わずに歩みを進めることができる人こそが、本当の自分自身の幸せを見つけられるのだと、私は教えられた。

ガンに真正面から向き合い、弱い自分を曝け出しながらも、周りの人の助けをありがたくいただきながら生きていくこと。

遠い未来を見て悲観的になるのではなく、「今」この時を精一杯楽しんで生きること。

その積み重ねが、私らしく自然体で年齢を重ねるということなのだということに、 私は改めて気づかされたのだと思う。

乳がんの闘病記と聞くと、ガンと闘っている方が読むといいと早とちりされてしまいそうだが、この本は、生きにくさを感じている全ての人に書かれた本であると言っても過言ではないだろう。

私のように、ガンに家族を奪われてしまった人、喪失感に苛まれている人にとっても、救いの1冊になると、私は信じている。

母を失ったとき、私は何もできない、無力な子どもだった。あのとき、何もしてあげられなかった、助けてあげられなかったと、大人になってからも、私はずっと苦しんできたのだ。

でも、本当は違っていた。

ガンになるのは、誰のせいでもない
ガンは単なる病気であり、人生の通過点にしか過ぎないのだ。

失うことは、怖いことではない。

迷いながら、泣きながら、笑いながら、

大切な人たちと 今、この時間を生きることの方が、よっぽど大事。

こんなシンプルなことはない。

それで、いいのだ。


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