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読書感想:ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち

読んだきっかけ

タイトルを読んで、「あ、これは僕の話だ」と感じた。
何を隠そう、ドラマが好きで毎シーズンほとんどのドラマの1話は見ることを決めているが、最近は専らTVerで倍速再生でドラマを見ている

どうでもいいから結論だけ知りたいという訳では無いが、数多くのドラマの中から今期の個人的イチオシ作品に出会うには通常再生では間に合わないのだ。

話題の新書が出た時にクライアントからいつ話が振られても良いようにFlierの有料会員にもなっていた。(要約にやや疑問を感じることが多く、結果的にあまり使わなくなりちょうど先日解約した)

更には、仕事に役立つ類のツイートを好んで探してもいる。
「〜なノウハウをまとめました」的な形で3-4枚の画像に簡潔にまとめられたものは大好物である。

これらの行動は、恐らく本書の言う「10分で答えが知りたい人」そのものなのではないか

という直感と

更にその前に書いてある「ファスト教養」とは何だ

という興味から本書を手に取った。

総括

結論めちゃくちゃ面白かった。要約すると、著者には怒られてしまいそうだが、すごく大雑把にまとめると下記のような内容である。


ファスト教養とは、お金に直結する豆知識・小手先のテクニックのようなもの。これが支持を受ける背景にはビジネスパーソン達の「焦り・不安・恐怖」がある。

そもそもの発端は、小池百合子知事や小泉政権時代に生み出された「自己責任論」がベースとなっている。

自らの手で何とかしないと振り落とされるような空気が世の中に充満し、時代の寵児となった堀江貴文氏、勝間和代氏、そしてそれらに続く田端信太郎氏やNewsPicks系のビジネスインフルエンサー・YouTuber、ビジネスパーソン化するスポーツ選手の「言い切り型」で発信される「成功・成長≒稼ぐ」といった言説、
池上彰氏や出口治明氏のような有識者的立ち位置の「結果として教養はビジネスに役立つもの」と取れる発信、
そしてAKB48のような個人の”努力”を数字で可視化するエンタメが勃興、
などの様々な要素が絡み合い、広がってきた

そしてそれらは政府の持つ前時代的な価値観と非常に相性が良い

こうしたファスト教養からイノベーティブなものは生まれず、社会の分断を推し進めていくのみ。

これから求められるのは、ファスト教養と一定の距離を保ちつつ、打算的な理由無く「好き」なものを自分のペースで深めていく姿勢と深い専門性に基づく情報に触れること。


特に、政治家たちの発信するメッセージとのファスト教養の相性の良さを論じた部分は個人的に読み応えがあった。


読後の感想


「このままじゃマズい」という不安や危機感から、ファスト教養に救いを求めてしまう感じは、まさに自分の通ってきた所で胸の奥が少しズキズキした。実際、僕が「このままじゃマズい」と感じるに至った要因としてはお金の問題がある。

恥ずかしい話、月々のカード請求が支払えず、リボ払いに手を出していた時期があった。たまたま仕事を通じて得た知識や、仕事でお世話になったFPの先生に聞いた話を基に、一定の基準まで立て直すことは出来たが、正直「もっとお金が必要だ」という感覚は、物理的にも精神的にも抜けない

人生100年時代と言われ、年金受給年齢が引き上げられたり、昨年相次いだ物価高、何かと生活負担が増える中で、リボ払いや借金はしなくとも、お金で苦労している人は多いのではないだろうか。

そうした状況下では、若くしてお金を持っているであろう、”成功者”の語る秘訣に手っ取り早くアクセスしたいニーズの多さは容易に想像がつくし、気持ちもすごく分かる。何故ならば、僕には彼らが輝いてみえたからだ。彼らの思考をインストールすることに、救いを求めてしまった。

ただ、一方で、フォーマット化しているファスト教養に触れ続ける中で、それに対するきな臭さを感じることが増えた。特にビジネスインフルエンサーと呼ばれる人々に対してだ。

具体的な事象を挙げればキリがないが、個人的に象徴だった出来事は3つ。ひとつめは、Twitter表示アルゴリズムをハックした結果、実態は無さそうなのに数万人のフォロワーを抱えるマイクロインフルエンサーのアカウントから語られる、浅い定型文的なツイートが「マーケティング」トレンドカテゴリにずらりと並んでいたこと。

ふたつめは、著名なビジネスインフルエンサーたちの炎上騒ぎなどを立て続けに目にして、「この人、偉そうなこと言っていたけど、こんなモラルすら無い人なのか。」と感じることが増えたこと。

みっつめは、そんな炎上騒ぎに対して、舌戦を繰り広げたり、内輪ネタで盛り上がる様子をSNS上で目にしたこと。

こうした一連の出来事のたびに、言葉にできない嫌悪感を感じるようになったのだ。もしかすると目が覚めかけている状態だったのかもしれない。

ここ数年、カンヌ受賞の広告・クリエイティブの事例や国内のPRアワードグランプリの受賞エントリーを分析する中で、心を動かされる経験をしてきた。その一方で、言語化できない過去の自分に対する嫌悪感みたいなものが最近芽生えてきていたが、その要因は、自分の仕事がそもそもファスト教養的アプローチだったからなのか、と本書を読んで気が付いた。

報道データベースの傾向を分析し、載りそうな企画を考える。そこには想いは乗らないし、好きも嫌いも別に関係無かった。その御蔭で、ある程度再現性のあるやり方は身についたが、面白みは無い。

この個人的な大発見を生かして、これからは自分の感情を大切にして、深く「これだ!」と思うモノやコトを掘っていきたいと感じた。



追記

読み終えた後に考えたことを少し。
数年前に、「嫌われる勇気」がヒットし、その名を聞くことが増えたアドラー。

僕は、「嫌われる勇気」の読後は非常に感動し、続編「幸せになる勇気」は読後にちょっとしたモヤモヤが残った。その理由としては、つまるところ自らを変えることこそ重要であり、外部や他社に期待するなというメッセージを受け取ったからだ。

続編の文中で、それはアドラー心理学の曲解であると明確に指摘されてこそいるものの、捉え方によってはアドラー心理学は「自己責任論」のように見える。

非常に乱暴に言えば、アドラー心理学は、生まれた環境や境遇、状態に関わらず「自分次第で変えていくことが出来る」とするものである。

確かに、言わんとすることは分かる。確かな物として、自分があり、視点や見方や向き合い方を変えることで、「変わる」ことは出来る。

ただ、それは根本的な解決にはならない。逃げられない環境や境遇もある。それは最終、「お前の努力が足りてねーんだ」と突き放される感覚があった。

「自分次第」と捉えると自分のみならず他者に対しても「よりよき方へ向かえよ」と思いつつ、課題は「切り分ける」ので、ここまでやっても変わらないなら仕方ないよね。自分の出来ることはした。でもそれに向き合った自分の心持ちは変わるよな。
それを糧に生きていくといい。

みたいな、やるだけやったら諦めろ。見方によっては、お前は変われたよ。
というのはあまりにも暴論ではないか。そんなモヤモヤが晴れない状態が続いていたが、「ファスト教養~」を読んだことで、モヤが少しだけ晴れた。

前述のアドラーに対する僕の解釈は、「ファスト教養~」の中で再三述べられる「バカ、と他者を見下し、こちらとあちらで線を引く」スタンスに近い。しかし、そこには一つ重要な視点が欠如していた。それは「偶然性」だ。
偶然性は、「ファスト教養〜」の後半に登場する。

この偶然性を意識して、アドラーの主張を再考すると少し見え方が変わる。

勉強することで異なる見方や視点を身につける事が出来る。すると、今の環境、境遇、状況には保証も必然性も無く、偶然性が大きく影響していることが分かる。だから、自分も他者と同じ環境、境遇、状態になっていたかもしれない。そしてそれは他者も同じである。

だから、現時点から如何様にも変わる可能性はある。
ということなのかなと思った。



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