「前」と「し」を集める女
角の八百屋には娘がいる。彼女は木曜日と金曜日だけ店に立つ。顔立ちがよく愛想もいい文字通りの看板娘だ。
しかし、私は必ず木曜日と金曜日を避けて野菜を買うようにしている。私には彼女の習慣がどうしても苦手なのだ。その習慣のことを思うと、まるで常人然として「今日はブロッコリーが安い」だの「八つ頭が入っている」などと野菜を勧めてくる彼女の姿が異様に思え、いや、それだけではなく野菜を買っている主婦たち、ひいてはこの街の住人全てが異様に思え、たかが野菜を買うのに余計な脂汗をかく羽目になる。
彼女は、街の「前」と「し」を集めている。
この街のバス停には「〜前」という停留所がない。みんな彼女が「前」を集めてしまい、無くなってしまったのだ。
「しのだ歯科」は「のだ歯科」になってしまった。
彼女の仕業であることは実に明白であるのだが、この街に彼女を咎める者は誰もいない。
彼女がいつ、そしてどこに「前」と「し」を持ち去ってしまったのかは誰にもわからない。いや、知っている者も実はどこかにいるのかもしれないが、それを話す者はいない。
皆んなにとっては暗黙の了解のうちに、彼女はその文字が現れる度、いつの間にか回収してしまうのである。
気の毒な名前を持った候補者だと、掲示板の前に立った私は同情したのであった。
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