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Twitterの下書きを供養する#3「社会的使命感に溢れてる人は、たちが悪い、好奇心や宗教心のほうが信頼できる」

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この記事シリーズでは、Twitterの下書きから、人の目に触れるつもりで書いたけど投稿できなかったツイートを140字以上あれば供養してあげられるのでは無いかと考えて書いている。

「社会的使命感に溢れてる人は、たちが悪い、好奇心や宗教心のほうが信頼できる」

今改めて読んでみても、「本当にそうかな、主語が大きすぎやしないかな」と思うツイートだ。

たぶん、この時は社会的使命感のある人に自分の考えを否定された後か何かで多少感情的になっていたのだと思う。

でも、ここで言いたかったことの根底にあることはいつも思っている。

基本的に、人は人の生き方には干渉しないべきということ。特に、否定したい場合はより慎重に。まずは、「自分がなぜ他人を変えたいと思うのか」を考えたほうがいい。

例えるなら、道に寝ている人がいるとき、「この人は屋根のある場所で寝るべきだ」と思う人と、「なんで道に寝ているんだろう」と思う人、「道に寝ている人は神様だ」とかいろんなことを思う人がいて、この中で、いちばん最初の例の感情がいちばん悪質になり得ると私は思っている。

屋根のある場所で寝るべきだ、と誰かに言う権利なんて、無いのが原則だ。

社会的使命感というか、「この人をもっとよくしてあげなきゃ」と思う人は、目の前の人を否定することから始まっていて、それはせっかく人と関わっているのに「自分」という枠から一切展開することがない勿体ない行為だ。それどころか、他人の枠を突然壊してくる暴力をふるっているといってもいいかもしれない。

好奇心って、そういう意味で言うとけっこう人間にとっては良い起爆剤になることが多いと思っている。いきなりレッテルありきで介入してくる人間よりも、あなた誰?と聞いてから関わってくれる人間のほうが、私としては信頼できるかな、と思うのだ。

子供を育てる、とか、人の支援をする、とか、そういうときに当てはまることかなと思う。

ちなみに、無視をするということもある。これはあらゆる場面でいちばん辛い行為だと思う。無視についてはまた今度考えたいなと思う。

※宗教心、についてはよくわからない。なんでこの言葉を書いたのか、思い出せないし理由も思いつかなかった。これが下書きにのこした理由かも。



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