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Twitterの下書きを供養する#4 映画デンデラに「娘や息子も喜んでいる捨てたわけじゃない、復讐のエネルギーがあるなら云々...」みたいなこと言ってる人がいた。全くわかってない...(略)

映画デンデラに「娘や息子も喜んでいる捨てたわけじゃない、復讐のエネルギーがあるなら云々...」みたいなこと言ってる人がいた。全くわかってない...
このようなTwitterの下書きをのこしていた。

映画「デンデラ」とは、2011年に浅岡ルリ子主演で公開された、佐藤友哉氏による同名小説原作の映画である。

私がこの作品を観たのは学生の時で、父親がなんとなく借りてきて観ていたのを一緒に観て衝撃を受けた。(父親は途中で観るのをやめて私は一人で最後まで観た。)

大好きな作品である。

その名の通り、遠野物語に登場するデンデラ野に着想を得た物語で、姥捨山に捨てられた老婆がじつは死なずに老婆同士のコミュニティを築き上げており、自分たちを捨てた村人に復讐しようと準備しているという内容だ。

ちなみに、監督の天願大介氏は「楢山節考」の今村昌平の息子さんとのこと。(「楢山節考」も姥捨山伝説が印象的に描かれている作品。)

小説・映画共に、老婆たちは村人への復讐を目論む中で、それとは無関係のヒグマとの死闘を繰り広げる。

この作品はYahoo!映画での評価が2.6とかなり低いのだが、ざっとその感想を見てみると、この「ヒグマとの死闘」というストーリーがひっかかっている意見が大半で、つまらない、B級映画、俳優の無駄使いなどと酷評されているようであった。

(ちなみに、私のTwitterの下書きには何個か「Yahoo!映画の評価は全く信用ならない」と残されている。)

私が冒頭の下書きを残したのは、Twitterで「娘や息子も喜んで捨てたわけじゃないのに、復讐は違うと思う。復讐のエネルギーがあるならもっと生産的なことに使えば良いのに」といった内容のツイートを見かけて反応しようと思った時だ。

つい、荒っぽい言葉しか出てこなくなってしまったので下書き行きになってしまった。(結局、以下でも荒っぽい言葉になってしまうのだが・・)

この映画で描かれている老婆たちは、「村」というコミュニティに排除された、最も弱い存在だ。男の老人も勿論山に捨てられるが、老婆たちは決して男は助けない。彼女たちを排除するルールを作ったのは、男たちだからだ。

老婆たちは「デンデラ」という彼女たちのコミュニティを作り、そこで農作も狩も行い自給自足の暮らしをしている。元気に働ける者もいるが、そうでない者もいる。できる範囲の役割を担い、助け合って暮らしている。排除は行わない。村にはなかったシステムだ。

デンデラを作った人物は草笛光子演じる三ツ星メイ。メイの「生」への凄まじいエネルギーがデンデラの原点となっている。そのエネルギーの出発点こそ「村人への復讐」という感情なのだ。

エネルギーがあったから復讐をするのではなく、復讐という付け火があったからこそ生まれたエネルギーだ。Twitterで見かけた感想(しかもそこそこ支持を得ていた)は、あまりにも映画の文脈とかけ離れており、私は落ち込んでしまった。

物語が途中で「vsヒグマ」になってしまうことにガッカリする人も多いようだが、「ぶっ××す!」という感情それ自体は「vs村人」であっても「vsヒグマ」であっても本質は変わらない。むしろ、ヒグマとの闘いも村人への復讐と同じように描くことで、「生きる」ということそれ自体をより克明に描き出しているのだ。(しかし、老婆とヒグマの闘いの描写はそれなりにグロテスクなので苦手な人は苦手かも。個人的にはすき)

「デンデラ」に登場する熊がちゃっちいとかそういう感想はともかくとして、村人への復讐に燃える老婆やヒグマとの死闘が描かれたことそのものに理解が及ばない人というのは、きっと「ぶっ××す」という感情が、何より生きるためのエネルギーになるのだという人間のある一面を知らないのだと思う。

それは本人にとっては幸せなことなのかもしれない。そういう人にとっては、確かにデンデラのような映画は必要ではないだろう。

ただ、この映画に救われる人を理解できない人が多数を占める社会に今いるのだとしたら、すごく生きづらい。

とにかく、雪山で体を張った演技をやり切る女優陣に異様な元気をもらえる映画です。多少のグロ描写が大丈夫な方は是非ご覧ください。

※ちなみにMovieWalkerでの評価は3.5 Filmarksでは3



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