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笑えない冗談について。

昨日の朝、フォローしているアカウントが大正12年の関東大震災時に日本で起こった差別とデマによって起きた虐殺を想起させる、悪質な書き込みのスクショを上げ糾弾するのを見た。

晒されていたうちの殆どは悪ふざけのつもりだろうとすぐにわかった。明らかに根拠のない差別感情に基づくものもあった。見た瞬間、とても怒りを感じ、わたしも何件かは無言で通報した。

しかし、数少ない悪ふざけを糾弾することで逆に拡散してしまうことを、果たしてどうなのかとも思った。おぞましい文言が目に入り、傷ついた方もいたと思う。

しかし、冗談のつもりで著名人の名前を出しながら、誰が見ても関東大震災のときの虐殺を彷彿とさせる荒唐無稽なツイートに、多くのおもしろい、という反応がついたのは事実だった。

多くの方が指摘している通り、冗談なら、ネタならいいわけが無い。

毎年、関東大震災のあった9/1には関東大震災時の在日朝鮮人虐殺についての文豪や著名人、一般人、警察など公的資料、新聞等による証言集を読み返す。複数それぞれの立場からの証言を読むと、何が起こったのか、その輪郭と細部が見えてくる。その場に生きていたら、日本人、人間というものを憎む理由になってもおかしくはない。

しかし、一方で虐殺なんて無かったという内容の本が出版されるなど、今も言葉によって暴力は続いている。私も、当時は仕方なかったんだという意見と出会ったのは一度では無い。

悪ふざけにしろ本気にしろ、おぞましい歴史、しかも改竄されようとさえしている歴史を彷彿させる言葉に出会った時、教科書数行の知識でしか知らない人と、日頃から差別感情に晒されている方、その恐怖を感じている方では受け取り方が全く違うはずだ。

だから、冗談なんだから怒るな、という言葉に対しては、怒れない方が知識と他者への想像力が足りないと考えたほうがいい気がする。

声が大きすぎることは、声を上げる人の口を塞ぐ理由にはならない。実際、批判されたことで投稿の殆どは消されたようだ。

夜が明けてみると、そもそもそんな投稿はなかったという嘘や、ネタならいいという発言、そこに同調するように湧いて出てくる明らかな差別感情が少なくない数見受けられる。

事実、3.11のときは本当に差別的な言葉によるデマをまことしやかに聞いた。子供の頃から、私は確かに生身の人間から、出身地や国籍で人を疑う言葉を聞いてきた。明らかな差別感情を持ちながら、関東大震災での虐殺は、無かった、あまり掘り返すな、とする人たちは普通の人たちの中にいる。

差別はない、と言い切る暴力。改めてそれは暴力なんだと認識したい。

そして、「怒るな」と、怒る声。

私も言葉にできる人たちを「ひまだなぁ」と思ったことがあるけれど、それは誰かの口を塞ぐ理由にはならない。

何も語らず、淡々と生活する人は尊いし、自分の仕事の中で社会の役に立とうとする人もいて、もしくは自分のことだけでいっぱいいっぱいという人もいる。

それでも声を上げる人を批判したり冷笑する暇はあるなら、それなら自分も自分の言葉で問題そのものについて語ったほうがいい。声を上げる人を公の場で馬鹿にするのは、一番簡単な自己表現になってしまう可能性がある。

結局、気軽にやってしまった悪ふざけに火をつけたのは批判した人たちだったという意見は間違っていたと思っている。冗談ならいいだろう、と思った人は事実たくさんいたのだ。対して、良いわけないだろという声が沢山上がったことには救いがある。

「怒り」には理由がある。「怒り」という感情に出会ったとき、ただ怒っているからという理由で黙らせようとする態度には慎重でありたい。

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