見出し画像

無人島の天子とならば… - 好きな俳句

夏目漱石の俳句です。
1903(明治36)年6月中旬ごろ作られたものだそうです。

無人島の天子とならば涼しかろ
愚かければ独りすゞしくおはします
能もなき教師とならんあら涼し

               漱石

人嫌い、厭人癖のある自分には、特に最初の句はよくわかります。
寂しがり屋だけれど、人といるのは基本的に疲れます。

いちばんのストレス解消は、ひとりドライブで知り合いのいないところへ行き、できれば自然の風光を楽しみ、温泉にでも入り、見知らぬ街の居酒屋あたりで、うまい酒を飲む、なんてのが最高なんですが。
浮世のしがらみで、なかなかそうもいきません。
で、俳句でも読んで、せめて俗世を”心理的”には逃れたいという…

無人島の天子とならば涼しかろ

天子とはいかなくても、たまにはひとりになりたいものです。
私の話はともかく、漱石先生は?
漱石先生も、人嫌いだったんですかね。

そこで書物を紐解きますと、こんな事情が分かってきます…

冒頭の俳句は、”他人との煩わしい交渉のない境涯への憧憬を詠んだもの”だと、石井和夫『風呂で読む漱石の俳句』には解説されています。
ここのところは、私と似たようなものですが。

半藤一利『漱石俳句探偵帳』によれば、以下のような事情があることが、わかります。
(漱石は)”この年の1月にロンドンから帰国し、四月十日に一高、十五日に東大英文科の講師の辞令をそれぞれ受けている。ふつうなら洋行帰りのハイカラ先生として勇み立つところである。それなのに、教壇に立ってまだ二カ月もたっていないのに、このぼやきようなんである。”

ボヤキの俳句なわけですか、なるほど。

『風呂で読む漱石の俳句』に戻ると、こんな記述があります。
(漱石は)”四月に、一高と東大で教鞭を取ったが、後者の「英文学概説」の理詰めの講義が不評で、前任の小泉八雲を慕う小山内薫らのボイコットを招く。”

要は、洋行の費用を返済する義務があり、ロンドン留学より帰国後の4年は教壇に立たねばならず、前任の小泉八雲を慕う学生たちに反発されたりして、いろいろ大変だったのですね。
そのうえで冒頭の俳句が生まれたわけでした。

終わりに、俗っぽい話で恐縮ですが。
東大では小泉八雲が”月給”400円、漱石が”年俸”800円をもらっていたそうです(江藤淳『決定版夏目漱石』によれば、一高では、漱石の年俸は700円、東大とかけもちで年俸1,500円ですか)。

当時は30円あれば一家楽に暮らせるという時代だったそうですから、漱石先生はかなりな高給取りでいらっしゃた訳でしょう。
”お雇い外国人”小泉八雲は、カルロス・ゴーンばり(言いすぎかな?)の高給取りだったようですね…

お雇い外国人はさらに高給取り(金食い虫)、彼らは明治政府の財政を圧迫し、政府は日本人の官費留学生をお雇い外国人に替えて、東大の先生にする必要があったのです。
漱石は、その官費留学生第1号だったのでした。
英文学を極めたいと留学した漱石にも、国家的な責任があったわけです。
東大から文明開化(近代化)を推し進めていく方針の時代にあっては。

愚かければ独りすゞしくおはします
能もなき教師とならんあら涼し

あらあら漱石先生、最後は開き直っちゃいましたね…
”先生稼業”があまり好きでなかったようですが、留学費用もかかったし、何より食わねば、食わせねばなりません。
無人島にでも行きたくなるよなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?