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自分史上最大の失敗とそこから学んだ教訓

もう10年以上前のことだが、今でも思い出す仕事の苦い思い出がある。

慢心した己、実力不足を思い知らされた初仕事、苦い幕引き。

できれば蓋をしておきたかったが、これもひとつの経験ということでまとめてみた。

エンジニアからコンサルへ

そのプロジェクトを受注したのは、会社の方針でエンジニアから ITコンサル にキャリアチェンジしてから1年くらい経ったときのことだった。

当初は「コンサルってなにそれ食えるの?」というレベルで戸惑いだらけだったものの、外資系ITコンサル出身の社長、歴史ある日系ファーム出身の先輩の指導もあってそれほど苦労することなくプロジェクトにおける自分の役割を全うできるようになった。

コンサルとして行う情報収集・整理と分析・本質的課題の抽出・打ち手の立案・実行支援のような一連のプロセスは、ロジックの専門家であるエンジニア・アーキテクト職の考え方と共通する点も多く、次第に大手クライアントの案件で、リーダーのような役割も任せてもらえるようになってきたころだ。

初めてのプロジェクト責任者

ある外資系から、100万円台前半の、短期間かつ小規模なプロジェクトを受注した。

前述の通り、経験を積むにつれ少しずつ自信を深めていた自分は、「このプロジェクトを自分で回してみたい」と思い、クライアントに提案した。

クライアントは社長に依頼したかったようだが、予算が少なかったのと、簡単なリサーチのあと合宿形式でアウトプットを仕上げるという拘束時間の問題で社長の時間が抑えられず、私の提案が採用された。

小規模なプロジェクトとは言え、自分の実力だけでは不安があったので、数名で独立系ファームを経営している先輩に相談して参画してもらった。実績ある人物だけにフィーも高く、予算のほとんどをその先輩への業務委託費で使ってしまうことになったが、初めてのプロジェクトはどうしても成功させたいという気持ちが強く、自分はタダ働きでもよいという覚悟で (残業的な意味で) 依頼した。

そしてプロジェクトがスタートした

最初から、全てが予想外の展開だった。

米国でMBAを取得し、複数の外資系企業で事業戦略を推進してきたクライアントは、発注者でありながら事業戦略・マーケティングあらゆる面において自分より知識が深かった。かろうじて自分の強みが活かせたのは、IT系事業会社の経験が長く、エンジニア出身であるという点だけだった。プロジェクトのターゲットがベンチャー企業だったため、その発注アルゴリズムや社内政治、予算感などはよくわかっていた。

頼りにしていた先輩は、ジュニアを1名アサインしたっきり、プロジェクトにはほぼ参画しなかった。最後の詰めである合宿参加だけでも、一流コンサルのフィーとしては安すぎたのだ。ジュニアの子は頑張ってくれたが、会議における彼の分析や発言がクライアントに刺さっていないのは明らかだった。彼の分まで私がリサーチや資料作成を行わなければならなくなった。

プレッシャーが半端なかった。クライアントは、これまでの顧客に比べて明らかにコンサルという人種を使い慣れていた。「関与度の薄いベテラン、パフォーマンスの低いジュニア、全ての責任を負っているのは君だよね?どうにかしてくれるんだよね?」という無言の圧力が四六時中、何をしているときでも私の心に重くのしかかっていた。

できることをやるしかない

知識不足に関しては、とにかく勉強した。短い時間しかなかったが、クライアントが知っていて自分が知らないことは昼夜を問わず勉強した。論理だけでなく、エビデンスがないと具体のディスカッションができない。基礎知識を学びマイナスをゼロにするだけでなく、ゼロからプラスにするためのデータ集め・エビデンス集めをとにかくやった。

サポートとして発注した先輩やメンバーに期待するのはやめた。思えばそれは逃げだった。人まかせにするのであれば、最初から自分が受ける必要はない。クライアントからしてみれば、プロパーだろうが、パートナーだろうが、バリューを出すのは誰だっていい。「君が責任を取るんだろ?」クライアントの姿勢は理にかなっていた。自分ができうることを、できるだけのスピードでやった。

プレッシャーはどんどん強くなっていった。合宿最終日の前夜、まだ結論が出ていない中、ホテルの大浴場でクライアントと鉢合わせた。合宿中は昼間もずっとディスカッションが続いていたが、風呂でも仕事の話だった。時間が少ない。焦る気持ちを隠して、最終日のアウトプットをとにかく考え続けた。

最終日

最終日の前日、風呂場でひらめいた。

クライアントが持っていたフレームワーク、日々のディスカッションで精査したアタックリストとマーケットペイン・ゲインの仮説、台湾・韓国での成功事例、クライアントの趣味嗜好、それらがファネルの中に時系列でピタッとハマった・・・!と自分では感じていた。

クライアントも、納得はしているようだ。だが、期待値に達することはできたのか・・・。

その後のことはあまり覚えていない。事前リサーチや情報収集から、合宿、アウトプット。初めて自分で責任者として受け、チーム編成し、納品したプロジェクトは終わった。

その後

プロジェクトのアウトプットを納品後、クライアントから社長にメールが届いた。

だいたい以下のような内容だったと思う。

◯◯社長様

御社の岡村さんに担当してもらったプロジェクトだが、アウトプットに満足できない。

また、彼が連れてきたコンサル2名も、シニアマネージャは関与度が低く他人事で、メインで入っていたジュニアはレベルが低くて使い物にならなかった。

社長自ら参画し、フォローしていただきたい。

「ちょっと、クライアントに納品したアウトプットみせてもらえる?」

社長は私に言った。私は恐る恐る転送した。

「まあ、リサーチ内容はよく整理できているし、打ち手もクリアになっていると思う。クライアントから頂いている金額と期間から鑑みて品質的には金額以上だと思うので、もしさらに僕 (社長) が入ってアイディエーションするのなら追加の金額いただきたいかな。僕から話してみるよ。」

その後、社長からクライアントと交渉したようだ。私のところにはそれっきり何の連絡もなく、プロジェクトは完全にクローズしたようだ。

クライアントが満足に至らないままで。

最後の最後で逃げてしまった後味の悪さ

受注時は自信満々で社長のフォローを断り、意気揚々とプロジェクトに望んだが、最終的には自分顧客の期待値を下回りクレームをもらい、会社にかばわれるという、落差と恥ずかしさで穴があったら入りたい気持ちだった。

クライアントは、外資系企業の有名なエヴァンジェリストだった。彼は事あるごとに、自分や自分の会社のアウトプットががっかりするものだったこと、その後のフォローが弱かったことなどを吹聴するだろう。

次から次へと悪い妄想が膨らむ。

顧客の期待値を下回った際に、食らいついてでもリカバリーをしなかった自分。社長にクロージングを任せ、逃げてしまった自分。

それ以来、10年経ったいまでも、情けなさと恥ずかしさからずっと自己嫌悪の感情が尾を引きずっている。

10年経って思うこと

この話を人にすると「たいしたことないように思えるけど」と言われることもある。「むしろ、初プロジェクトでよくやったじゃん」と逆に激励されることもある。

それでも、自分の中に残っている「恥」の感情は消せない。

人間の "プライド" というのは、要するに「何を恥ずかしいと思うか」だ

勝負に負けることを恥ずかしいと思う人もいる。

持ち物を他人と比べ、劣っていると恥を感じる人もいる。

武士道や騎士道など、規範に反する行為を恥と感じる人もいる。


自分の場合は「自分がやりました、と、胸を張れない仕事をしてしまった」というプライドなんだと思う。しかもその自己評価に蓋をしてしまった。

仕事の評価は人それぞれで、自分がやってきた仕事でも、「よくやった」と言ってくれる人もいれば「あんなやつはインチキだ」という人もいる。人の評価はいろいろ。

でも自分の評価は偽れない。


先ほどの仕事、内心感じていたことは、たぶんクライアントはもっとクリエイティブな、楽しげな "キャンペーン企画"、みたいなのを求めていた。


最後のメールにあった「満足できない」という部分は、「こういうロジカルな戦略的なやつだったら、おれらだけでもできた。そうじゃなくて、自分たちだけじゃ思いつかないようなブレークスルーを、御社に依頼することで生み出したかったんだよね」ということなんじゃないかと、うっすらずっと感じていた。


それなのに、それを生み出す技量が自分の中になかったから、戦略論とアクションプランという形でプロジェクトを着地させ、一定の成果にした。クライアントには「コレジャナイ感」が残ったかもしれないが、それを確認することなく、逃げた。


そうだったのかも、そうじゃなかったのかも、わからない。


「聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥」という気分だ (原義とはニュアンス違うけど)。


自分は学がないくせに、勉強したことで、成功体験を積むことで少し慢心してしまった。最後の最後で、そのちっぽけな "慢" の心が邪魔をし、クライアントとビジネスを続ける機会を失ったんだと思う。


それ以来自分は、「自信がないなぁ。確認したくないなぁ。」と思っても、"頑張れ、逃げるな、恥ずかしいのは一瞬だ。ここで聞かなかったらずっと後悔するぞ。" と、自分に発破をかけるようにしている。



photo : -REcallable-Memories-of-ET- 

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