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アイスコーヒーとキキ

2016年6月某日。

梅雨の蒸し暑さが鬱陶しく感じる日だった。

骨折した右足が回復し、松葉杖無しで歩けるようになっていた。

その日、友人(通称:アニキ)と浅草にある隅田川沿いの喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた。この喫茶店に来たのは初めてだが、やけに落ち着けた。スターバックスやタリーズみたいに混雑していてがやがやしている感じはないし、店内に流れるジャズミュージックもセンスがいい。

アイスコーヒー1杯で900円という少々お高い値段のみが気になるが、それくらいだしてもいいと思わせるものがここにはあった。

アニキは僕の1歳年上の26歳。彼の26年間の人生の中で女性と交際していた期間は3ヶ月。女性経験はほとんどゼロに近しい。人畜無害が人の形をしている、そんな人間だ。おおよその女性からは「優しいけれどいざというときに頼れなさそう」というむごい評価を受けている。

そんなアニキと、「どうすれば彼女ができるのか」という人間の始祖の代から全世界で議論されつくしてはいるが、これといって明確な答えが導き出されていない最難関の議題に、社会人の土曜日という貴重な時間を費やしていた。

結局、議論は平行線。隅田川の遊覧船を見ながら、いやらしい蒸し暑さをアイスコーヒーで紛らわせていた。

そんなときだった。ふと顔を上げてみると、なんとも健気な女性が目に入った。その女性はこの喫茶店の店員だった。きびきびと働いているが、接客態度はとても丁寧。笑顔で客と接していた。「あぁ、殊勝で素敵な女性だなぁ」と感心しているとこちらのテーブルにやってきた。

店員 「日差し少しきつくなってきたので、ブラインド閉めちゃいましょうか?」

僕 「ありがとうございます。お願いします」

紐を引いてブラインドを下げていく。汗が溜まったうなじ(通称:けな毛)の状態もほどよい感じだった。なんなんだろう。この気持ちいいくらいの健気さは。出会って10分で2016年の健気オブザイヤーをかっさらっていった彼女。その健気さは雨の中ニシンパイを届ける魔女の宅急便のキキを彷彿とさせた。

こんなイメージ

そのキキに「私このパイ嫌いなのよね」を放ったこの女には右ラリアットだ!!


少し話しかけてみた。

僕 「今日は蒸し暑いですね」

店員 「そうですねぇ。暑いの苦手なので困っています(笑)」

僕 「ここはアルバイトなんですか?」

店員 「はい。普段は大学生です」

僕は、こういうときうまく話せないので、少し照れながら、それとなく会話をした。

そのあと、アニキと「あの娘の健気さが半端じゃない」というすでに答えも知っているし、自明である問いに関して社会人の土曜日という貴重な時間を更に費やした。

その日以降、またあの娘に会いたくて、週に1度のペースでアニキとその喫茶店に通うようになった。

落ち着いた雰囲気やおしゃれなジャズミュージックなんてもはやどうでもよく、あの娘に会うために、900円のアイスコーヒーを飲み続けた。しかし、あの娘には会えなかった。一度も。夏を過ぎても。

アニキ 「もうアルバイトやめちゃったかもしれないねぇ」

僕 「そうかもですねぇ」

僕 「もう一度会いたかったですねぇ」

他の店員にあの娘がやめたのかどうかも聞けなかった(というかあの娘の名前も知らないので、聞こうにも聞けなかった)

季節は変わり、もう暑さはなくなりすっかり肌寒くなってきた。アニキとの会話でも、あの娘のこともあまり出なくなっていた。

時は経ち。11月某日。21時まで残業して、早稲田にある家に着いたときだった。アニキから急にLINEの通知が入った。

青のところには喫茶店の名前が入ります。

僕は、早稲田から浅草まで、ストライダーをかっ飛ばした。

ストライダー

上の通話を見て分かる通り、21:40過ぎに家を出たのだが、店が閉まるのが23:00。僕がどうストライディングしても早稲田から浅草までは40〜50分かかる。着くのはおそらく閉店30分前だろう。それでも、「またあの健気さに触れられる」。その一心で僕はサドルに腰掛け大地を懸命に蹴った。

このトンボみたいに頑張っていたと思う

息を切らしながら汗だくで喫茶店に着くと、アニキが座っているのが見えた。

僕 「あの娘は?」

アニキ 「あそこにいるよ」

アニキが指差した先にあの娘がいた。ビールサーバーを懸命に掃除していた。あの娘がまだここでバイトしていたことと、その健気さが健在であったことに安堵した。席について、あの娘にアイスコーヒーを頼んだ。

僕 「アイスコーヒーを1つ」

あの娘 「はい!」

僕 「すみません。僕、6月にもここに来たんですが、覚えてないですよね?」

あの娘は少し戸惑いながら「すみません。覚えてないです」と返事した。「あー、やっぱり覚えてないか…(心の声)」

聞きたいことは山ほどある。「名前は?」「おいくつですか?」「どこに住んでいるですか?」「大学ではどんなことを勉強しているんですか?」「得意な戦法はなんですか?居飛車?穴熊?それとも矢倉囲い+棒銀?」

けれども、いざ彼女を目の前にすると何を聞けばいいのか全然わからなくなってしまった。

もはや、パン屋の亭主さんくらい喋らなかった。

黙っている僕にアニキが声をかけた。

アニキ 「早くしないと、もう閉店しちゃうよ!」

そう。もう閉店まであと15分。あの娘も閉店作業で少し忙しそうにしている。質問は一つに絞ろう。そうこうしているうちにあの娘がアイスコーヒーのグラスを下げに来た。ラストチャンスだ。ええい、いこう!

僕 「すみません、次のシフトいつ入ってます?」

質問を投げかけると同時に全力の後悔が僕を襲う。なぜだ!なぜそれを聞いた。もはやストーカーではないか。名前も、仕事も、何も知らない男から「半年前に会ったの覚えてます?」などと聞かれたあげく、次のシフトを聞かれるとは。久しぶりに会えた高揚感から、もう一度会いたいという欲求がどストレートに爆発しているではないか。

なんやこれ・・・。完全に終わった・・・。

そう思った瞬間あの娘の口が開いた。

あの娘 「金曜日です。また来てくださいね」

救われた。それが顧客に向けられたマニュアルの笑顔であっても救われた。「ありがとうございます。また来ますね」と本心からの返事をした。

結局、この日も会話はその程度だった。だけど、前回と違い希望がある。金曜日、またあの娘に会える。その喜びに満ち溢れながら店を出た。

帰路の途中、僕の気分は高揚していた。隅田川の風がいつもより心地いい。アニキとの会話も弾んだ。夜を置き去りにして駆け出したいくらい気持ち良かった。次のアニキの一言を聞くまでは。

アニキ 「でも、金曜日手術じゃなかった?」

僕 「・・・」

完全に忘れていた。そうだった。この右足のチタンプレートを摘出する手術が金曜日にあったんだった。この手術の日はどうやっても入院で外出できない。

ひどい。むごい。くやしい。やっと半年ぶりにあの娘に会えたのに!次のシフトも把握しているのに!!(もはやストーカー)

僕は運命のいたずらを悔やんだ。

そして、今日。これを書いている。手術は無事終わった。摘出されたチタンプレートを手渡された。このチタンプレートはあの喫茶店のアイスコーヒーのようにひんやりしている。

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