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若松英輔『生きる哲学』から考える「読む」と「書く」

「読む」と「書く」

批評家・若松英輔さんの『生きる哲学』。特に、「読む」と「書く」に関する終章の記載の数々から、自身が書き手・作り手になることの後押しを受けるように感じられた。

ここに記す言葉は、もしかしたら、将来の自分に宛てられた手紙となるかもしれない。「コトバとの出会いは、一回的な邂逅である」という記載のとおり、また別の瞬間に自分がこれらの文章を目にしたときにも、想起されるイメージは今とは異なるはずである。

本書内部で、カタカナ表記される「コトバ」とは、広義の意味での言葉を指す。すなわち、『言語の姿にとらわれない「言葉」』として、たとえばジェスチャーや音楽、また、哲学まで包含すると解釈している。

本書からの引用

本書からの印象的な文章を書き残す。

人間は、内なる光によって照らされた、二度と繰り返すことのない叡知との邂逅、それをさまざまなコトバによって世界に定着させようとしてきた。それが「書く」ことなのである。

『生きる哲学』若松英輔 P.263

「書く」とは、単なる自己表現の手段ではなく、永遠にふれようとする試みとなり、「読む」とは、それを書いた者と出会うことになるだろう。そこに見出すコトバは、時空を超えてやってきた、自分に送られた手紙であることを知るだろう。

『生きる哲学』若松英輔 P.265

「書く」とは、コトバを通じて未知なる自己と出会うことである。

『生きる哲学』若松英輔 P.264

すなわち、「書く」とは文章を記すことに限らない、広い意味での創作活動。そして、「読む」とは作品を通して、作者と対話しつつ、自身の解釈を新たにそこに重ねること。

言語学者の井筒俊彦さんは、『意味の深みへ』の中で「読む」ことの今日的意義について、以下のように記しているという。

厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達の古典の読み方は、あるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ。(『意味の深みへ』)

『生きる哲学』若松英輔 P.255

文中の「こういう人達」とは、ロラン・バルトやジャック・デリダといった、「読む」こと自体に哲学的な意味を見出したヨーロッパの現代思想家を指す。そして、一見ネガティブに捉えられる「誤読」を、創造的な営みとして肯定する。

伝統的な古典のテクストの注解のような文献学的に正しい読み方の探求とは別に、創造的誤読とも呼ぶべき営みがある、と井筒は言う。そればかりか、「誤読」によってこそ、歴史に刻まれた叡知は、今によみがえるというのである。

『生きる哲学』若松英輔 P.255

ここでの「誤読」とは、粗雑な読みを意味しない。コトバとの一回的な邂逅を指す。固定された「読み」ではなく、今、ここで起きるコトバとの出会いを生きることを意味する。

『生きる哲学』若松英輔 P.255

その他、ゲーテの『色彩論』から派生する、色を重ねること・布を編むことの記載や、神谷美恵子さんから展開する「生きがい」への考察などが印象的。また別の機会に書き残したい。


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