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【朝鮮出兵と熊本県の歴史】

戦国の「三英傑」という言葉があります。戦国時代に天下を統一へと導いた3人の戦国大名を指して呼ばれます。
①織田信長(1534〜1582)
②豊臣秀吉(1537〜1598)
③徳川家康(1542〜1616)
この3人は愛知県(尾張国と三河国)の出身で、名古屋にゆかりのある戦国武将です。
織田信長の戦略的なブレーンとなった家臣は明智光秀であり、豊臣秀吉の戦略的なブレーンとなった家臣は石田三成でした。
石田三成(1560〜1600)は豊臣秀吉から寵愛された家臣でした。しかし、戦略家ではありますが実戦にはあまり参加しない武将でした。秀吉の朝鮮出兵では全体の指揮をとりましたが、実戦に参加する加藤清正や小西行長らの武将から反感を買うこととなりました。
頭脳は切れ者ですが他者の痛みが理解できず、家臣団の間で人望が得られませんでした。石田三成は人望の乏しい武将であったため、豊臣秀吉の死後の家臣団をまとめあげることができませんてした。そのため、関ヶ原の戦い(1600年10月21日)では、家臣団の造反により徳川家康の圧勝に終わりました。もし石田三成が人望のある人物であったなら日本史も変わっていたかもしれません。
熊本県はかつて「熊襲(くまそ)」の国と呼ばれていました。「隼人(はやと)」と呼ばれた鹿児島県の大隅地方と同様に中央政府に反抗的な人が多く、「難治の国」と認識されていました。
豊臣秀吉の天下統一事業に九州征伐(1587)というものがありました。九州征伐で功を成した佐々成政(1536〜1588)は、豊臣秀吉から肥後一国を与えられました。豊臣秀吉から肥後一国を任された佐々成政は領国統治のため「検地」を行いました。「検地」というのは、田畑の面積、収量の調査を行うため領主が農民の田畑を調査することです。新しく征服された土地で多く行われました。佐々成政は肥後の領地を治めるために検地を行おうとしましたが、検地に反発する国人(国衆)の反乱が勃発してしまいます。鎮圧に失敗した佐々成政は、1588年に豊臣秀吉に謝罪するため大坂を訪れますが面会を拒否され幽閉されることとなります。豊臣秀吉は加藤清正を検使として佐々成政の切腹を命じ、成正は自害させられました。
肥後国統治の失敗により、佐々成政は自害することとなりました。領主が不在となった肥後国は、豊臣秀吉子飼いの2人の武将により治められることになります。
①加藤清正(北側の肥後国)
②小西行長(南側の肥後国)
石田三成が豊臣秀吉の戦略的なブレーンであったことは説明しました。1592年に始まる文禄・慶長の役と呼ばれる朝鮮出兵では、石田三成が全体の指揮をとりました。そして、朝鮮出兵で武功を争うように進軍したのが肥後を治めていた加藤清正と小西行長の2人でした。
豊臣秀吉の朝鮮出兵が失敗したことは広く知られています。そして、未だに中国・韓国との間の歴史認識問題が話題になるとこの「朝鮮出兵」が蒸し返されることがあります。東アジア外交において長く障害として残ることになりました。
韓国ソウルの王宮である景福宮に続く大通りの真ん中に李舜臣(1545〜1598)の銅像が置かれています。李舜臣は李氏朝鮮時代の将軍です。文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いて戦い、韓国では救国の英雄とされています。
秀吉の朝鮮出兵は無益で何も残さなかったと言われます。しかし、陶芸という分野ではその後の日本文化に大きな影響を与えました。豊臣秀吉の時代には茶の湯文化が発展しましたが、朝鮮に出兵した日本の武将たちは当時陶器の技術に優れていた朝鮮からたくさんの陶工を連れ帰りました。鹿児島県に残る薩摩焼、山口県に残る萩焼はこの時代に連れて来られた朝鮮陶工により発展しました。
朝鮮出兵に失敗した後、豊臣秀吉は1598年に亡くなります。秀吉なき後、秀吉の子である豊臣秀頼を擁して豊臣政権を存続させようとした石田三成と天下を我が物にしようとした徳川家康の間で関ヶ原の戦いが行われます。1600年10月21日のことです。
この関ヶ原の戦いで、加藤清正と小西行長の明暗が分かれます。2人はともに古くから豊臣秀吉に仕えてきた武将です。加藤清正は尾張出身で秀吉に見出されて武将になり、一国の領主にまでなりました。しかし、関ヶ原の戦いでは2人は別々の立場で戦うこととなります。加藤清正は豊臣家から離反して徳川家康率いる東軍につき、小西行長は豊臣家を守るべく立ち上がった石田三成率いる西軍につくこととなりました。
関ヶ原の戦いで勝利した東軍についた加藤清正。敗北した西軍についた小西行長。
関ヶ原の戦い以前は肥後国の北側を加藤清正が、南側を小西行長が治めていました。小西行長が西軍についたため、その領地を加藤清正が治めることとなりました。これにより、清正は肥後52万石の大名となりました。ちなみに、小西行長はキリシタン大名でした。彼は宇土城を根拠地とし、天草や島原などの地区を治めていました。関ヶ原の戦いでの敗北後、縛りつけられて切腹による自害を求められた際にキリシタンであることを理由に応じず斬首されました。
加藤清正は治世に優れた武将で長く尊崇を集めています。熊本城などの築城技術に優れた城を作り、治水工事にも尽力しました。しかし、その死後は三男が跡を継いだものの領地を改易される憂き目に遭います。肥後国は鎌倉期以降続く武家の名門細川氏が引き継ぐこととなり、肥後54万石の大名となりました。細川氏は日本でも屈指の古い家系であり、総理大臣を務めたことで知られる細川護熙(1938〜)は肥後細川家18代目の当主です。
熊本県の歴史について少し考えてみました。

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