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おいしい生活

「鴨コンフィ麺 to 鴨親子丼」 らーめん鴨to葱@上野・御徒町

 「おいしい生活」は1982年に西武百貨店の宣伝として糸井重里さんが産んだキャッチコピー。名作コピーを集めた「日本のコピーベスト500」では第一位に選出されるほどの名コピーである。なぜこれが名作なのかについては、今までに何万回も解説されているが、逆に今の人は知らない気がするので敢えて説明する。「おいしい」の部分について、今の人が聞いたら違う意味で捉えてしまうと思うから。

 きっと「おいしい生活」と聞いた時、まず「そんなおいしい話、あるはずないよ」と使う時の「おいしい」という意味を想像するのではないだろうか? 「おいしい生活」=「自分にとって都合が良い生活」という解釈だ。で、それはこのコピーの本質の意味ではない。

 バブル経済へ向かっていく中で、金銭的余裕が増え、消費そのものがどんどん盛んになっている時代。糸井さんはロケに向かう飛行機の機内食を食べて味気ない(おいしくない)と感じたのだそうだ。それがきっかけになって、このコピーは誕生した。おいしくない=味気ないということだ。味気ないの意味を辞書で調べると、つまらないこと、魅力がないこと、風情に乏しいこととある。だから反対に「おいしい」とは、「楽しく、愉快で、風流があり、興味深く、魅力的」な『豊かさ』を集約している言葉なのだ。「おいしい生活」とは物質的、精神的、文化的な『豊かな生活』を提案しているコピーなのである。当時、より良い生活を望む風潮があり、このコピーは時代の持つ空気感を言い得て妙に代弁した。さらに消費文化が成熟していく中で、おいしい(美味しい=快楽)という言葉が持つ多幸感も演出していたのである。

 それから40年が経ち、情報は過剰なほど豊かになり、経済的には豊かさを失った。
 だが「おいしい生活」は今の空気にも当てはまるコピーになっているのではないかと感じる。ただし、糸井さんの産んだ本質の意図じゃなく「自分にとって都合が良い生活」という意味の方でだ。

 昨今の「より良い生活」とは、ストレスや無駄を省いたものを一番に求めているように思える。
 欲するよりも省くことが重要。断捨離なんかもそうだよね。それはそれである種の成熟と言える。例えばデザインでいうと究極の答えの一つは削ぎ落としたシンプルにあるからだ。

 ただ、ちょっと削ぎ落とし過ぎて本来の目的とは別のものになってしまってない? と最近思ってしまう。タイパ、コスパといった効率を求めるのはわかるのだけど、結果的に無駄な時間や労力を避けるため、問題を避け、失敗を避け、ストレスを避けて生きるという「回避的」日常になっているのではないかと感じる。それって本当に「より良い生活」なんだろうか?

 不景気の影響が続いたせいで、味気ない世の中になったのかもしれないし、「より良い生活」の価値観そのものが変わったのだとは思っているけど、そんな削ぎ落としの毎日は本当に味気ないと思う。味気ないってことはより良くはないはず。
 僕は映画を作っている人間なので、映画やドラマの倍速視聴に対してもそれを感じている。タイパを追求することで得られるのは、内容がわかったという知識だけ。情感などの感覚的豊かさを失っている。そういうのを続けていると、知識だけは人一倍持ってる童貞みたいになっちゃう気がする。で、それは僕にとっては味気ない。この情報過多時代、それこそ知識はググればいいだけのものなんじゃない? 味気なさの原因について考えると、省いていいものはあるけど、それが心を動かすものであってはならないんじゃないか? と思うのだ。心動かすものを省いたら、やがて不感症気味になっていき、人間味までが味気なくなっちゃうんじゃないかと。

 僕だって、問題は嫌だし、ストレスも感じたくないし、無駄も省きたい。嫌な一日をなんとか回避して過ごす時もある。だからこそ1日に1回1時間だけでも、好きなもので心を動かす時間を意識的につくっている。それが僕にとっては偏食食べ歩き。糸井さんとは違う意味での「美味しい生活」だ。正直ね、食べ歩きには、無駄がつきものなんですよ。コスパ良いお店は並ぶからタイパ悪いし、タイパ良いお店は結局満足しきれるわけでもないことも多くコスパ悪いしで。それでも僕にとっては「豊かさ」を与えてくれている気がしている。

 ちょうどこの削ぎ落としと心を動かす話をしていて、無駄を削ぎ落とすことで究極の味わいを生み出し、僕を感動させてくれたお店を思い出した。
 それは、上野のガード下というか御徒町との間くらいにある「らーめん 鴨to葱」だ。

 このお店のスープは、鴨・葱・水のみで炊いた無化調スープ。引き算して引き算して、鴨のコクだけを抽出して、ネギの旨みと合わさることで旨みを倍加させているという、一見シンプルながら、恐ろしく難しいことをやってのけているラーメンなのだ。本来僕は別に無化調であるかどうかは気にしない。というより化学調味料は旨みを爆発させるから、必要あるなら使ったらいいじゃんと思う派だ。「えーっと無化調です、健康志向です、天然の旨みなんですぅ」とか偉そうに言っておいてたいして旨くない店なんか逆にFUCKだと思っている。

 「鴨to葱」はそんな僕の顎を的確に撃ち抜いて、脳を揺らしてくれた。
 頼んだのは「鴨コンフィ麺 と 鴨親子丼」。

鴨コンフィ麺

 鴨コンフィ麺はいわばチャーシューめんに当たるメニュー。ただ鴨と葱オンリーの店だからチャーシューではなく鴨コンフィなのだ。もう、このコンフィ1つとっても、この店はエンタメ性に満ちている。楽しませてくれて、感動させてくれるのだ。で、次のエンタメはこのお店の特徴でもある葱選び。券売機の左上に「今月の葱」が書かれている。ラーメンに乗せる葱を3つある今月の葱の中から2つ選んで食券を渡すときに伝える仕組みになっているのだ。「国産丸太白葱」はデフォルトなのかいつもある気がする。焼き鳥のねぎまみたいな焼きねぎをさらに煮て甘みを出した感じ。まさにカモネギのイメージ通りで、めっちゃうまい。その他は輪切りねぎと鰹節とか万能ねぎとか月によってちょこちょこ変わる。僕は「国産丸太白葱」と「輪切り九条ネギ」を選んだ。
 で、カウンターに座ったらまた驚きのエンターテイメント。なんと畳で出来たカウンター。この感じも他にはない面白さ。外国人がいっぱい並んでる理由がわかる。確かに映えるね、これは。

畳のカウンター。鴨コンフィ麺と鴨親子丼

 スープを飲めば、無化調なのになんて味わい深いんだろうと思ってしまう。余談だけど、僕が蕎麦屋で蕎麦を食べる場合、特別なその店のウリでもない限り、ほぼ絶対鴨せいろを頼む。鴨せいろ、旨いよね。あの鴨せいろのつけ汁の鴨味をもっと濃厚にして、脂の旨みも加え、それに葱の香りをちょっと移したというのが近いと思うんだけど、こればっかりは飲んでもらわないと伝わらない気がする。コンフィもしっとりして旨い。鴨は苦手っていう人もいると思うけど、本気でフレンチのコンフィ級に食べやすい。いや、「鴨to葱」の方が臭みが全くなく、鴨特有の硬い肉質も感じない。あ、フレンチ超えちゃってるね、ここ。ミシュランの星とってないのが不思議なくらい。
 ストレートな細麺もいい。鴨せいろって言ったけど、ちょっと意識しているかもしれない。鴨南蛮や鴨せいろをラーメンにしたらどんな感じ? ってのを体現しているように思う。ちょっと蕎麦っぽさが麺にもある気がする。
 だからサイドメニューのご飯は親子丼なのだ。蕎麦屋のセットだったらそうなるでしょ? しかも鴨縛りなので、鶏ではなく鴨の親子丼。そして親子丼って玉ねぎを使うのが一般的だけど、この店の場合はやはり葱を使っている。これも玉ねぎではない新しい旨さを作り出している。

飲める親子丼

 思い出したんだけど、ちょっと前はこの親子丼の名前って「飲める親子丼」というネーミングだったと記憶している。そうなのだ。この親子丼、飲み物なのだ。半熟と生の中間くらいのとろっとろの玉子とじ。本気で飲める。あ、また余談で、僕はかつ丼が好きなんだけど、親子丼も好きで、柳川鍋とかも好きだ。で、気が付いたのは、出汁玉子とじという調理が好きだってことなんだ! 今更ながら、実感。
 この親子丼、旨いんだけど出汁が結構甘め。飲み続けるとちょっとあまーいって気分になっちゃうんだけど、これがさらにエンタメな仕掛けになっていて、親子丼を飲んでから、鴨スープと麺を啜ると、スープの旨さがさらに爆発する仕掛けになってるのだ。甘さとしょっぱさを行き来したくなってしまう。これはやばい。鴨スープと親子丼を交互に飲み続ける形になって、結構な量あるはずなのに、いつの間にか完食してしまう。

 食べ終わって感じたのは、こういう引き算による究極の削ぎ落としと人を感動させるエンタメの両立ができる男になりたいな、と。

 どうですか? 知識的な情報はお渡ししました。それでも、その味は食べてみないとやっぱりわからないじゃないですか。エンタメの人間としては残念ではあるのですが、情報だけでは実際体感する感動は伝えられないんですよ。なので、気になったら行ってみてください。食べてみて、好きだと思うのでも嫌いだと思うのでもいいんです。好きも嫌いも心の動き。食べたら心は動くので、ぜひ。

 さーて、じゃ、今日は何を食べようか? 味気ある一日のために。
「美味しい生活」万歳!


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