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恐ろしき職人芸

「焼豚らーめん」 はやし@渋谷


 空気が固形化している。ぼこぼこぼこと鍋が煮立つ音だけが鳴り響く。その場のものは誰も声ひとつ発せずにいる。人の群れとは弱いもので、数では圧倒しているものの、群集心理が働いて、その場の空気を察すれば察するほど歩調を合わせるしかないと選択肢を狭めていく。

 この緊張は、店主の空気から発せられているのだった。別に私語禁止とかそういうのが書かれているわけではない。ただ、店主が気難しそうなオーラを発しているのだ。ご本人にそういうつもりはなく熱心にラーメンを作ろうとしているだけなのかもしれないが、その様が実に不機嫌そうに感じられてしまう。職人っぽさに満ち満ちているとでもいおうか。なにせ、メニューも「らーめん」か「味玉らーめん」か「焼豚らーめん」かの3種類しかない。一応、それらを塩で注文する裏メニューもあるが、どちらにせよトッピングが多少変わるだけの「らーめん」そのもので勝負という意気込みが伝わってくる。
 渋谷屈指の名店「はやし」。そう、さらに行列のできる名店だからこそ、そのオーラに店の格という貫禄も乗っかってしまっているのかもしれない。
 奥さんであろうか? 注文を受けるご夫人が温和な方だから中和しているが、もし店主一人だったら、怖いという印象を持ってしまうだろう。次回訪れるのを躊躇うような敷居の高さを感じる。

焼豚らーめん

 ただ、その空気もラーメンが目の前に出てくれば一変する。
 動物系・魚介系のWスープというまたお前か!となってしまうラーメンだが、そのレベルが段違い。バランスよく配合され、融合されたスープは、何系ともつかない芳醇で優しい味わい。ストレート麺もツルツルとスープと共に口に滑り込んでくる。チャーシューも肉と脂のバランスが良い味わい。支那竹もすこぶる美味しい。持論だが支那竹が美味しい店は、ラーメンも旨いと確信している。さらに中央にひと欠片のせられた柚子が飽きさせないアクセントになっているのも素晴らしい。一品一品も全体的なバランスも恐ろしいほど完成されたらーめんなのだ。

 しかし、なんだろう。この旨さの秘密には、この張り詰めた空気が上手に作用しているような気がしてきた。旨いラーメンであるという先入観を強化し、ラーメンを食べることに集中させる役割をも果たしている。そういう意味ではラーメンの味覚以外に働く演出になっていると言える。これが狙いであれば、恐ろしい職人芸だ。
 さらに、ラーメンに集中させた上で、その期待を裏切らない店主の腕そのものも賞賛に値する。しっかりした重さも感じるのに、あっさりしているとも感じられる一杯。やはり改めてラーメン全体のバランスが突出しているのだと感じる。料理とはバランス。そのバランスが優れた状態を『絶妙』と呼ぶ。

 スープも完飲し満足したところでちょうど数人の食べ終わった客が出て行き、並んでいた客と次々に入れ替わっていく。新たな注文が入り、注文を受けた店主はまた不機嫌で気難しそうなオーラを発し出した。その緊張感が高まる前に、僕は絶妙なタイミングで店を出る。
「ご馳走様でした」
 
 外に出ると一気に開放された気分になる。食べるのに集中させられる上に、なんだかプレッシャーもあり、早く食べなくてはいけない気分になり、いつもより急いで食べ終えてしまった。相変わらず長い行列ができているので、待っている人にはありがたいことかもしれないが。

 そこではたと気が付く。
 もしあの店主のオーラが、この回転効率を上げるためにも作用しているとしたら? さらに恐ろしい職人芸なのではないかと。

 いや、考え過ぎか…。


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