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浦田直也の自己紹介

「仕事をしたくない」
「もう無理、全部やりきることなんて出来ない」
「言いしれない不安に押しつぶされそう」


そう思いながらテレビゲームに逃げ、漫画に逃げ、Netflixに逃げ、
自分で自分のことを嫌いになっていく。


早く寝なきゃいけない、って分かっているのに
自分を全くコントロール出来ずに、
布団でスマホをダラダラと見続けてしまう。


午前3時、まだ寝れない。
午前4時、崩れるように眠る。
午前8時55分、寝不足を感じながら在宅勤務をし始める。


自分が壊れてしまいそうなギリギリの日々が続き、私は──






はじめまして、浦田直也です。

私は今、川崎在住でライフコーチングを提供しています。

30代半ばで、妻と二人の男の子と4人家族です。


2023年3月31日で会社を退職し、
4月から専業ライフコーチとして仕事をしています。


コロナ禍になる前は毎年海外出張へ行ったり、
日本の大企業のお客様を担当して働いていました。


副業として始めたコーチングは、


セッションを提供した友人から
「直也のおかげで人生が変わった。」という声をもらったのが
大きな後押しとなり本気で取り組み続けています。


その他のクライアントさんからも、
「月間の新規顧客が6倍になった」、
「もともと仕事をしたくなかったのに、仕事が楽しくなった」
といった嬉しい声をいただいています。



今は自分のペースでクライアントさんを見つけては
心から喜ばれるセッションを提供したり、
家族とキャンプや旅行をしたりといった生活をしています。



箇条書きで私の自己紹介をさせてください。

  • サラリーマンとして年収1900万円を得るも、それを手放して独立起業。

  • 激務やストレスを感じることなく、コーチングで月収130万円を得る。

  • 300万円以上の自己投資をして、より多くの人に喜ばれるための方法を学ぶ。

  • 家族に対して一切怒鳴る事なく、子供が騒ぐのも含めて暖かく見守れる。

  • 自分の将来の目標を胸に抱いて、毎日ワクワクしながら目を覚ます。

  • 深いやりがいを感じて毎日達成感とともに寝る。

  • クライアントさんから「浦田さんのおかげで、人生が変わりました」と感謝の言葉を貰う。

  • 毎日ジョギングや筋トレをして、自分を好きでいられる体型を追求する。

  • 本気で周りの人を幸せにしたい、と思っている仲間たちと切磋琢磨している。

  • 年収7000万円の師匠や、年収3000−5000万円規模の経営者や起業家と出会い、世界の広さを知る。


このような感じで過ごしています。


今でこそ充実した日々を送っていますが、
2022年の前半はメンタル絶不調でだましだまし
仕事をしているような状況でした。


自分の将来の理想のキャリアを描くことが出来ず、
かといって今を全力で楽しむことも出来ない。


仕事の働きがいを感じることが出来ずに、
朝起きるのが本当に辛くて。


家族の前でも暗い表情をしていることが多く
心配されてしまったり。

逆に自分の将来への不安からくるイライラを
家族にぶつけてしまったりしていました。



私が実現したいことは、
家族がお互いのことを心から信頼しきって、
想像を超えるような幸せになれる世界を作り出すこと



そのためには家族の一人ひとりが、
まず自分から幸せになっていくということが必要です。


自分が幸せであれば、その幸せは家族に自然と広がっていきます。


逆に自分を犠牲にしてまで、先に家族を幸せにしようとしても
なかなかうまくいきません。


あなたが無理をしているときは、
それがイライラだったり、不満や悲しみという形で
どうしても家族に伝わってしまうからです。


だからこそ私はコーチングを通じて、将来への希望があり、
今生きているこの瞬間に最高の生きがいを感じられる、
そんな幸せな人を増やしたいです。



なぜここまで家族の幸せにこだわっているのか?
一つの理由をご紹介します。

ハーバード大学が人間の幸福度に関するある有名な研究を行っています。

その研究はハーバード大学卒の裕福な男性たちと、貧しい地域出身の男性たち、
この2つのグループ(約700人)について追跡調査をしました。


この研究のすごいところはその追跡期間です。
なんと、75年にも渡って研究が続けられているのです。


この研究の結論は、こうでした。


「私たちの幸福と健康を高めてくれるのはいい人間関係である」


家柄、学歴、職業、年収、老後資金などではなく、
人間関係が幸福度と健康に影響する。


そして友人の数は関係なく、たった一人でも

心から信頼できる人がいるかどうかが重要

だということも分かったのです。


心から信頼できる人が家族の中にいると
あなたは最高に幸せになることが出来ます。

とはいえ、自分を犠牲にしてまで先に家族を幸せに
しようとしても上手くいきません。

不幸な状態ではポジティブなエネルギーを
生み出せないからです。

そうなると、最大限の幸せを得るためには
このようなサイクルを回していく必要が
あるということになります。

  1. まずはあなた自身が自立して幸せになること。

  2. 幸せになったあなたが、家族の幸せに良い影響を与えること。

  3. 幸せな家族は、あなたにより大きな幸せを与えてくれます。

  4. 更にあなたが幸せになる → 更に家族が幸せになるというループが始まります。

と、理想を語ってはみたものの、
それを邪魔する大敵がいます。


それは、


「こうすべきだ」
「これをしてはダメだ」
「こうじゃなきゃいけない」


という「べき思考」です。


この「べき思考」が周りの人に向くと
イライラや怒りとなって現れます。


「なんでアイツはこんな事もできないんだ。」
「普通はこうするでしょ!なんでアイツはやらないんだ」


というのが周りに「べき思考」が向いているときの心の声です。



逆に「べき思考」が自分に向くときには
自分を責めてしまったり自信を失うことになります。

「自分はなんてダメなんだろう…。」
「これを絶対やらないと…。」
「こんなことをしちゃダメだ…。」

というのが自分に「べき思考」が向いているときの心の声です。



恐ろしいことにほとんどの人が
何かしらの「べき思考」を抱えて生きています。


思い当たるフシがない人も、
以下にご紹介する「べき思考」の例を見ていただくと、
思い当たるところが出てくるかもしれません。

  • 失敗を避けるべき

    • チャレンジすることを避ける。

    • できることしかやらなくなる。

  • ちゃんとするべき

    • ちゃんとしていない自分を責める。

  • 人に迷惑をかけないべき

    • 人の顔色を伺って生きるようになる。

    • 逆に自分が迷惑をかけられたと感じたら激しく怒る。

  • 人にやさしくするべき

    • 自分の体調や気持ちより、人の都合を優先して疲弊する。

    • 少しでも優しくない態度をとった人へイライラする。

  • わがままを言わないべき

    • 自分の欲求や、やりたいことが分からなくなる。

    • 欲求に素直な人を見ると嫌悪感を感じる。

  • 成長するべき

    • 自分が成長していないと感じると不安になる

    • 苦しみながら何かを学んだり取り組もうとする。

  • 自分の姿は取り繕うべき

    • 自分の気持ちを表現することを恐れる

    • ずっと取り繕わなきゃいけないので、人と一緒にいると疲れる。


ここに書いたのはほんのわずかな例ですが、

「べき思考」を抱えたままだとどれだけ生きづらいのか、

はイメージがつくのではないでしょうか。



このブログでは、

私が自分で経験したり、
尊敬する師から学んだ、

個人として、そして家族として本質的に幸せになるための方法

(べき思考を取り除いたり、自分の理想を見つけたり、
そこに最短距離で向かっていく方法など)

について発信していきます。




このブログを読んで頂く上で、
私の過去の経歴を共有しておくと、
よりブログの内容が理解しやすくなると思います。

なので、私の過去の経歴と、
このブログで目指すものについて共有させてください。

生後〜 4人兄弟の長男として期待される

私は神奈川県鎌倉市で、
キリスト教徒である両親の元に生まれ、
4歳までは愛知県で育ちました。


父は化学系メーカーに勤務する会社員で、
私が起きる前に家を出て、
家に帰ってくるのは私の寝た後でした。

母は専業主婦でいつも家にいました。


小さい頃から毎週日曜日に教会で礼拝をする
生活が続いていて、それが当たり前だと思っていました。


自分が4歳のときには既に
下に3人の兄弟がいました。


4歳の私、
2歳の次男、
1歳の三男、
0歳の長女、


という4人兄弟です。
めちゃめちゃ間が詰まっていますよね。


そんなこともあって、
私は4人兄弟の長男としての役割を
いつも両親から期待されていました。


「直也はお兄ちゃんで偉いね!」といつも
両親から言われて育ってきたのをよく覚えています。


その当時は両親に頼ってもらえることが嬉しくて、
張り切って両親の期待に応えようとしていた気がします。


「兄としての自分」に存在意義を見出していました。


小学校では足は遅いし運動神経もそんなに良くは無いけど、
でも友達はいたし人を笑わすのが大好きな子供でした。

ただし、中学で人生最大のピンチが訪れます。

中学校でイジメにあう

中学に入って周りがどんどんおしゃれになっていく中、
その波に乗れずに、しかもメガネをかけ始めたり
思春期で顔にニキビが出来始めたりして
私は自分への自信を失ってしまいました。


そんな中で、イジりとイジメの中間みたいな
扱いを中学2年生頃から受け始めます。


男子の間では肩パン(じゃんけんで負けた人が肩にパンチされる)
でよく標的になって、自分ばっかりパンチされたり、


女子からはニキビ顔の自分へ「キモッ」という言葉を
聞くようになりました。


女子同士で「えー!それキモーい!」とか話しているのも、
自分に向けてじゃないのに「もしかして俺のこと話してるのかな?」
なんて思ってしまい、ここそこで陰口を言われているような
気がしていました。


その時は中学校に行くのが本当に苦痛で、
登校する前にお腹が痛くなってしまうようなことが
頻繁に起こってました。


中学校に行っても誰も味方がいない。
苦しい思いをするだけだ。


でも親に心配をかけたくない。


だから必死に元気なフリをして学校に通い続けました。


そんな痩せ我慢も当然ずっと続くわけもなく、
あるとき母にこうこぼしました。


「学校に行きたくない。」

「つらい。」

「こんなに苦しい思いをするくらいなら
生まれてこなければ良かった!」


私がしたのは八つ当たりです。


自分が感じていた苦しみをどうにかして
外に吐き出さないとおかしくなってしまいそうだったから。


そのまま中学校を卒業して高校に入学します。

高校で流れが変わる

「高校に入ったら何かが変わるかも!」と
期待をしていましたが、そんな奇跡は起こりませんでした。


顔はニキビっ面のままで、もはや普通のコミュニケーションが
取れなくなっていた私は陽キャのグループには入れません。


かといって、おとなしい性格のグループにも入れませんでした。

周りではそこかしこにグループが形成されていく中、
まさかの一人ぼっちです。


孤独はつらかった。


自分の居場所はこの世の中に無いんじゃないか、
と思っていました。


学校には行っていたものの、
義務感だけで通い続ける日々でした。



部活にも入らず。


コンビニのバイトを始めてみたものの
経験のある人は分かると思うんですが、
1ヶ月に1回だけしかやらないような特殊な対応が大量にあって、
なかなか覚えきれないんですよね。


コンビニの先輩にも雑な扱いをされて、
いつも怒られたり小言を言われていました。

「こんなこともできないの?」

「一回で覚えて?」

「またミスしたの?」


学校では居場所がなく、
バイト先でも嫌な思いをする日々。


一生こんなふうに雑な扱いをされる
人生になってしまうのかな…と思い
絶望していました。


転機が訪れたのは高校1年生の秋頃のことです。


バドミントン部の同学年の男子から声をかけられました。

「浦田、中学でバドミントンやってたんだって?
一度一緒にやってみようぜ。」


今思えば、イジりの範疇の行動だったのかもしれません。
一瞬の気まぐれだったのかもしれません。


中学ぶりに、その日体育館でバドミントンをしました。


そしてその次の日もバドミントンをして。


次の日も、更に次の日も。


コンビニのバイトは辞め、
私はバドミントン部へ入部願いを出して、
そこから部活にのめり込んでいくことになります。


ある時、イジりの延長線上で髪を染めることになりました。


ある時はジーンズメイトに連れて行かれて服を選んでもらいました。


徐々に自分の見た目が変わっていく中、
私はメガネを外してコンタクトをつけ始めます。


高校2年生の夏頃。


そこには陰気で誰ともコミュニケーションの取れない自分ではなく
毎日笑いながら友達と話せる自分がいました。

公務員へ

下に3人の兄弟が控えていたこともあり、
自分が両親の限りあるお金を使いすぎては
いけないという責任感を感じて、
大学進学ではなく就職をすることにしました。


とは言っても高卒で選べる仕事は
そんなに多くないと当時の自分は思っていました。


だからこそ、一度仕事が得られたら安定を
得られると思って横浜市の地方公務員として
就職することにしました。


約半年間ほど、過去問にひたすら取り組み
無事に就職試験に合格して公務員になることができました。


約600名ほどいた同期が各30人ずつくらいの
クラスに分けられて、1ヶ月半ほど続いた研修期間の後に
配属先の発表があります。


配属先が市役所の本庁だった人はキラキラと
輝いて羨ましかったのを覚えています。


私は区役所の税務課に配属されることが決まり、
そこからは40代、50代の先輩職員に囲まれて
仕事をする日々が始まりました。


自分のやりたいことが税金関係だったということもなく、
ただそこに配属されたからその仕事をするという状況でしたが
当時はそのことを何も疑問にすら感じていませんでした。


確定申告の時期は2-3ヶ月ほど繁忙期が続きますが、
それ以外のタイミングは基本的にゆったりとした職場です。


繁忙期以外はときどき窓口で市民税の相談に乗ったり、
証明書を発行したりするくらいでした。


「こんなにスローで良いの?」


と思うほど時間の流れ方がゆっくりしていて、
そういうときって本当に時間の流れが遅く感じるんですよね。


毎日定時になるのが待ち遠しかったです。


定時が来るまでに帰る準備をしておいて、
定時が来た瞬間に「お疲れさまっしたー!」と帰宅する感じです。


当時の月の手取りは約13万円ほど。
それまでアルバイトしかしたことがない自分には大金です。


実家暮らしだったこともあり、
まるで無敵になったかのような気分でした。笑


それでもやっぱり、
このままずっと公務員で良いのかな?
という疑問は心のなかにありました。


頑張っても頑張らなくても
年功序列で給料が上がっていくシステムなので、
周りの人達はなるべく頑張らずに仕事をただこなすだけの
人が多かったからです。

2年間の宣教活動へ

幼いときからほぼ毎週欠かさず通っている教会の話を少しさせてください。

教会では18-31歳を主な対象として教会の教えを学ぶ
インスティテュートという学校のようなものが渋谷にあり、

私は公務員になってからというもの、
平日に週2回ほどそこに通っていました。


そして19歳の男性は2年間の宣教活動へ行くことが
教会の中で強く期待されていました。


「行きたいです!」という申請書類は
最終的に自分自身の意志で書く必要があるものの、
私はなかなかその踏ん切りが付きませんでした。


でも仲の良い友人が1人、また1人と宣教活動に
旅立っていくにつれて、焦るような、
置いていかれたくないような気持ちが湧いてきました。


その気持ちだけだと不純かもしれませんが、
事実、教会の教えを通じて幸せを得てきたな、
という感覚を持っていたのでそれを多くの人に
届けたい気持ちも徐々に強まっていました。


そうして、申請書類を書き上げて教会の本部へ送付し
1−2ヶ月経った頃、自分の任地を知らせる封筒が届きました。


そこに書いてあったのは「札幌伝道部」、
北海道全域を管轄とするエリアへの2年間の配属を知らせる内容でした。


私は1年半ほど勤めた公務員を退職して、
その後ほどなくして北海道へと飛び立ちました。


専任の宣教師をしている間は、
常にペアとなる同僚を割り当てられます。


同じアパートで生活をし、トイレとお風呂以外は
常にお互いが目の届く範囲で行動をすることになり、
文字通り寝食をともにします。


同僚となる人はほぼ同年代の19~21歳です。

アメリカ人と同僚になることが多く、
この期間に英語もメキメキ上達しました。


そして週6日間、朝11時から夜21時まで
道行く人に声をかけたり、家をピンポンしたりして、
神様の教えを説いていく、という生活を24ヶ月続けました。


最初の数ヶ月はメンタルがボロボロです。


それはなぜか?


一度想像してみてほしいのですが、
いきなり道を歩いている赤の他人に話しかけて、
宗教の事を話すんです。


どんな反応が返ってくると思いますか?


何も返ってこないんです。

無視です。

まるで透明人間になったかのように無視をされます。
もしくは手でシッシッと追い払われる動作をするかです。


世間知らずの19歳の私は、
拒絶されるという恐怖を忘れていました。


中学のとき、あんなに苦しい思いをしていたのに。


いつしか、道を歩いているだけで
涙が出てくるようになりました。


そのときの私は「いかに自分が苦しいか」と、
いつも自分のことばかりを考えていました。

頭の中に浮かぶ質問も自分のことばかりです。

「私はどう見られてるんだろう?」

「私は変に思われてないかな?」

「なんで私がこんなに苦しい思いをしなきゃいけないんだろう?」


とても不健全な状態です。

その状況を脱出するためには、
大きな発想の転換が必要でした。


そこである晩、私は布団の上で神様に祈りながら、
自分が感じているすべての苦しみを
洗いざらい口に出しました。


「毎日めちゃめちゃキツイです。
こんなに苦しい思いをするくらいならもう故郷に帰りたいです。
こんな思いをしながら2年間も続けられません。」



そうしていると、イメージが湧いてきました。


いつか自分が死んだあとで、
色んな人にこう言われる姿が思い浮かんできたんです。


「浦田さん、なんであのとき目の前にいたのに
声をかけてくれなかったんですか?
せっかく本当の幸せを得ることのできるチャンスだったのに…。」


私にとってはとても鮮明で、しかも強烈なイメージでした。



ああ、そうか!

自分がビビって相手に声をかけるのをためらっていたら、
相手が幸せになるチャンスを奪うことになってしまう。

自分の恐怖心によって、相手のチャンスを奪ってはいけない。
もっと自分なら出来るはず!


その気づきを得てからは、
頭の中で自分に問いかける質問が
劇的に変わりました。


「どうしたら相手がもっと幸せになれるかな?」

「どうしたら相手の人生に良い変化を起こせるかな?」


人の幸せが自分の幸せ、という感覚は
この期間に強く育まれました。

自分の家族、友人、同僚や、
日々お世話になっている人、
教会の教えを学んでくれる人。


こういった自分の周りにいる人が笑顔で幸せであれば、
その笑顔と幸せは自分にも還ってくるんだな、
と強く実感しました。

東日本大震災での災害復興支援ボランティア

2年間の布教活動を終え、
故郷である横浜に帰ってきたのが2010年の10月です。


そこから、
大学へ行くためのお金を貯め始めました。


派遣社員として、ブルーレイ録画機のコールセンターで
問い合わせ窓口を担当することとなります。

4ヶ月が経って、仕事に慣れはじめた
2011年3月11日の昼過ぎ。

休憩で執務室から離れている間に、
地震が来ました。

私の住んでいた横浜でさえ震度5強を観測しました。


その日はコールセンターの仕事も無くなり、
帰宅命令が出ました。


家に帰ってからテレビをつけると、
被害の状況を知らせるニュース番組が
どのチャンネルでも流れています。


繰り返されるニュースを見て私は、
「このまま何もしなくて良いんだろうか?」と
自分に問いかけていました。


翌週、教会の中でも
災害復興支援ボランティアの募集が始まり、
私は募集を見たその日に応じることにしました。


いてもたってもいられませんでした。


2011年3月19日の日曜日には現地に到着します。


そこにはテレビで見た光景が
それ以上のリアリティとともに目の前に迫ってきました。


ここでは詳しい描写を避けますが、
人の人生を一瞬で奪い、壊してしまった
津波の爪痕を目にし、
圧倒されるような思いでした。


そこからは家宅内のヘドロの除去や、
物資の運搬などのボランティア活動に携わります。


教会の建物の中で寝袋で寝泊まりし、
日中は朝から暗くなるまで肉体労働をする。


地元の方からは、
本当に深い感謝をいただくことも出来ました。


ここでも私は、

「人の幸せが自分の幸せに繋がる」

ということを強く実感します。


そんな日々を4週間ほど送った後、
物資が徐々に流通し始めたタイミングで
帰宅することにしました。

ハワイでの留学生活

高校時代の私は英語の評価が5段階中2でした。

それにもかかわらず、
2年間の布教活動で外国人同僚と
生活する中で英語を話すことが
楽しくなります。


単純な性格をしている私は、
教会が運営する大学である
ブリガムヤング大学ハワイ校(BYUハワイ)への
留学を目指すことにしました。


英検2級を取得し、
入学願書を提出します。


その後、

「在学中のアルバイト必須」
「貧乏な家庭向け」

という条件の奨学金プログラムも利用することで、
寮の費用も込みで年間約42万円の学費で
入学する許可が下ります。


それまで日本の外に出たことがなかった私は、
ワクワクしながら飛行機に乗ります。


ハワイに到着したその日、

日焼け止めを全く塗らずにビーチで2時間を過ごして
背中が大やけどになるハプニングも経験しながら、
期待とともに学生生活を始めました。


23歳にして、はじめて大学生になります。


期待とともにはじめた大学も、
1年生の途中で専攻を選ぶ必要が出てきます。


当時のBYUハワイの就職事情は、
会計専攻の卒業生が大手の会計事務所に
就職することが多かったんです。


「自分がやりたいこと」がわからなかった私は、
「仕事が見つけやすそう」というメリットだけで
会計を専攻することに決めました。


いま思えば、これは間違いでした。


会計の勉強を進めれば進めるほど、
「数字と格闘してもつまらない」という
現実が見えてきました。


どうやら自分は会計との相性が悪いようだ、
という事に2年生の途中で気づくことになります。


それまではGPA(成績)を3.72/4.00という
高水準に保っていました。


1学期に18単位を取り、
朝7時半から昼過ぎまでクラスに出席し、
午後2時くらいからツアーガイドという
4時間ほどあるき続けるバイトをして。


バイトの後は仮眠をとって、
夜10時から勉強を始めて午前2時に寝て、
その後6時半に起きて7時半のクラスに出る。


そうまでして、一生懸命勉強していました。


でも「会計の勉強がつまらない」
という思いが日に日に増すなか、


ついに、
全く勉強に手がつかなくなります。


それからの私は、
打開策が何かないかとインターネットを
探し回りはじめます。


ブログで稼げるらしい、という情報を見つけて
それに取り組むために一度日本に帰ることにしました。

インターネットビジネスを2ヶ月で挫折

私はインターネットビジネスの魅力に
引き込まれました。


その当時はまずブログで10万円ほど稼いで、
その実績を元に「お金を稼ぐ方法」という形の
情報商材として販売するのが流行っていました。


もし情報商材がちゃんとヒットすれば
月収100万円も夢じゃない。


そんな謳い文句に頭を殴られたような衝撃を感じ、
1万円から2万円前後の情報商材を5つほど購入しました。


ここからブログで稼ぐ実績を作ろうと
意気揚々と取り組み始めます。


1日に3つのブログ記事を書く生活を続けて
2ヶ月間がたちます。


初月は3万円、
2ヶ月目は8万円が振り込まれました。


自分の力で稼いだという事実にびっくりして、
嬉しい気持ちを感じました。


でもその反面、誰とも話さずに
昼夜が逆転したような状態で続ける作業は
私のメンタルを確実に削り続けていました。


その結果、3ヶ月目は完全にやる気を失ってしまい、
まったくブログの記事を書くことができなくなりました。


でもそれまでの間に書き溜めた記事があったので、
その影響で24万円は入ってきました。


「労働時間がゼロの月に、24万円も入ってくる。」


その事実だけ見ると羨ましいと感じる人も
いるかもしれません。


でも当の私はメンタル不調で
ものすごく苦しんでいたんです。


その当時は自分に何が起きていたのか
良くわかりませんでした。


いま振り返ってみると
ハッキリと分かることがあります。


それは、


「仕事はお金だけ稼げればそれで良いのではなく、
自分が社会の役に立っている実感、
つまり貢献感を得ることもすごく大切。」


だということ。


この貢献感こそが、
人生に生きる意味とハリをもたらしてくれます。


仕事はお金だけ稼げればいいのではなく、
私の場合は貢献感が得られることが
重要な要素だとわかりました。

派遣社員になるも将来が不安になる

インターネットビジネスに挫折した後は、
「しょうがないから、また大学に戻るか〜。」と
考えて仕事を探し始めました。


そこで時給2000円程度のコールセンターの
派遣社員をすることになります。

コールセンターは自分から電話をかける仕事と
電話を受ける仕事の大きく2種類があり、
私は電話を受ける仕事でした。


勤務地は新宿のビル街の一角で、
周囲を歩いているのはワイシャツを着て
首から社員証をかけたサラリーマンばかりです。


私もワイシャツ姿で勤務することになり、
敬語を徹底的に叩き込まれ、
お客さんをお呼びするときも「お客様」と
呼ぶことになっています。


私の配属された部署には約7名ほどの派遣社員の同僚がいました。

30〜40代の男性が多く、その方たちと話していると
仕事や境遇への愚痴を聞くことが多かったです。


私は「大学へ復学する」という新しい目標が出来て、
そこに向かっていっている途中だったので
なかなか同僚の方たちとも話が合わず、
いつも昼食は寂しく1人で食べていました。


朝8時55分に会社に到着して、
18時ぴったりになると同時にタイムカードを切るような
働き方でした。


ホワイトといえばそうなのかもしれませんが、
電話の対応が終了する17時半以降の
30分をものすごく長く感じていたんです。


退屈なときって、時間を長く感じますよね。


コールセンターで働いている間は
なんとなく、自分の個性がなくなっていくような
感覚を覚えていました。


まるで人間から歯車になっていくような感覚です。


このまま大学に復学出来なかったら、
自分も仕事の愚痴を言いながら
働きつづける大人になっちゃうのかな?


そんなふうになったら嫌だな、と思っていました。


そんな私に転機が訪れます。
外資系IT企業に務める友人から、
私のもとにメッセージが届いたのです。

2014年10月14日のことでした。

外資系IT企業に就職。そして年収1900万円へ。

そのメッセージにはこう書いてありました。


「僕の会社で採用をモーレツにかけてるんだけど、
会社の成長具合と人の数が合ってないんです。笑
もし、なおやくんが興味あれば・・・ぜひ!」


メッセージを送ってくれた友人は当時、
内勤営業をしていて、
私の2倍以上の年収を稼いでいました。


しかもその彼と同じ役職での募集ということです。


「これは千載一遇のチャンスだ!」と鼻息を荒くした私は
翌日の朝7時前に、勢いで履歴書を送信します。


さらにその2日後、人事の担当者と電話面接を実施。


なんとか電話面接をパスして、
2週間後にはカントリーマネージャー(日本の総責任者)との
対面での面接を行いました。


その後も面接プロセスが進み、
晴れて2014年12月に入社をすることが決まりました。


日本法人の20番目の社員として入社をした私は、
それからどんどん会社の文化、情熱、製品に
のめり込んでいくことになります。


朝7時には出社をして、夜9時過ぎまで働く。
派遣社員のときと比べると、毎日5時間くらい
勤務時間がふえました。


でも、
派遣社員のときよりも働く時間を短く感じたんです。


なぜなら、楽しかったから。


その会社に入るまではずっと、
営業の仕事は自分が好きでもない製品を
無理やり売り込むことだと思っていました。


でも、その会社で取り扱っている製品は最高でした。
お客さんにも嘘をつく必要がありません。

自分が最高だと知っているその製品の良さを、
毎日お客様に紹介する。


そんな日々が続いたんです。


自分が20番目の社員として入社した後も、
人は順調に増え続け、およそ7倍以上の人数になっていました。


5回昇進して、年収はその後1900万円に届くまでになります。


いつしか私は、
「一生この会社で働きたいな。」と思うようになりました。

会社の買収とコロナでメンタルがどん底に

幸せな会社員生活を送り始めて5年が経ったある日。
そこで、大事件が起こります。

会社が、買収されるというニュースを、
Twitterで見たのです。

2019年の6月のことでした。

会社が買収されるニュースは、
社内で先に流れるということもなく、
外部のニュースをみて初めて知りました。


自分の大好きだった会社が買収されてしまう、、、。


「どうなってしまうんだろう?」
「どんな風に変わってしまうんだろう?」


大きな不安を覚えました。


とはいえ買収の発表の後、
法務的な手続きが完了するまで
1年半ほど必要です。


不安を抱えながらも、
仕事はそのまま続けていました。


そんな中でダイヤモンド・プリンセス号の
ニュースを初めとした、新型コロナウィルス関連ニュースが
増え始めます。


感染爆発を何度か繰り返す中で、
2020年5月には在宅勤務が推奨されることになりました。


それまでは会社の人とも仲良く雑談することも
多かったのですが、それが無くなりました。


わざわざ雑談をするために
予定を入れておくのも抵抗があり、
私は同僚との関係が絶たれてしまったような
感覚を覚えます。


朝起きて、自分の机に向かって仕事をする。


でも、やる気が起きません。
やる気の起きない自分が嫌で嫌でたまりませんでした。


勤務中なのに、
自分はちゃんと仕事をしていない。


会社からお金を貰っているのに、
果たすべき責任を果たしていない。


自分は人間としてダメなんじゃないか。
このまま底の見えない穴を転がり落ち続けるしか
ないんじゃないか。


そんなことを毎日思っていました。


次第に体調を崩しがちになります。
朝起きても全く疲れが取れていません。


「体調管理を優先するように」
というお達しが会社から出て、
日光を浴びるために散歩したりし始めました。


少しは回復したものの、
そこで買収の動きが本格化し始めます。


買収前のオフィスが無くなり、
買収後の会社とまとめる発表がありました。


その頃には、それまで慕っていた同僚や先輩も
多くの人が転職して居なくなっていました。


そうしている間に、自社製品のことをよく知らない
人たちが管理職として続々と入ってきます。


新陳代謝が、強制的に行われている。
血液が入れ替えられている。
自分の居場所がどんどん削り取られている。


そんな風に感じて、
ますます不安は大きくなるばかりです。


上司との面談で仕事の目標や
キャリアのビジョンを質問されますが
当たり障りのないことしか言えません。



「もう無理だ。」

「この会社で一生働くことは、私にはできない。」

「でもどうする? 転職する? 転職しようにも、
会社としては今より良い会社が思いつかない。」


副業をしたら良いかと思って色々と調べたりもしました。

ブログ、プログラミング、動画編集、
ライター、Webデザイン、物販、etc.,

でも、自分の心がときめくような
副業が見つかりません。


それは何故だったのか?


いま振り返ると、私が仕事でやりがいを感じるポイントとして、
「人の喜んだ顔を直接見られること。」があったからです。


ある日、コーチングは「人の可能性を引き出す対話技術」という
言葉を目にします。


そこで、一度コーチングスクールにも通ってみました。


通ったスクールで傾聴のスキルは学びましたが、
自分が根本的に変化した実感や
生計を立てられる自信を得ることができませんでした。


私は、見つからない出口を求めて必死に
もがき苦しんでいました。

コーチングの師匠との出会い

ある日、Instagramに出ていた
コーチングの広告に目が留まります。


普段はInstagramの広告をクリックすることは
ほとんど無かったのですが、なぜかその広告は
じっくり読み込んでしまいました。


その広告にはこんなことが書いてありました。

「コーチング業界は成果が出た一部の声のみを事例として取り上げ、
その他大勢の効果が出ていない人の声を取り上げていません。」

「私は本物のコーチング技術を身につけられる講座を提供しています。
その証拠として、受講生全員のレビューを公開します。」


ああ、20人中20人が確かな成果を実感できるような
再現性の高い方法を提供している
この人は”本物”かもしれない。

この人だったら新しい道が拓けるかもしれない。


そんな予感を胸に、個別相談へ申し込みました。


その時の私はその広告が、その後の自分の人生を
予想を遥かに上回るスピードで変えることになるとは
知りませんでした。


早速メールが来ました。

「個別面談の前に
事前動画を確認するように」
との宿題があり視聴を進めます。


視聴を進めながらも、
これだったら人生が変わるかもしれない、
という予感が強まります。


そこにはこんな内容が含まれていました。


「なぜ成果を出すにはマインドが9割と言われるのか?」
行動がマインドを生み出すのではなく、
マインドが行動を生み出すから。


「この講座で取り扱うマインドの書き換え方法とその事例」
他の方法では10人中2人しか効果を実感できないところ、
10人中10人が変化を実感できる方法であること。
またそのレビューを全員分公開していること。


「この講座で目指す超一流のコーチとは」
クライアントさんの人生に確かな変化を起こせること。
またその対価として、コーチ自身も
精神的・物質的な豊かさを追求できること。


事前動画の視聴も終えて、
個人面談の当日を迎えます。


Zoomで個別相談をしてくれた方は、
スーツを着こなし、多くは語りません。


語る代わりに、こう質問をされました。

「この講座のどこに興味を持たんですか?」

えっと、コーチングを副業に出来たらと思ったのと、
職場で周りの人と接する時に役に立つと思いまして。


「半分はお役に立てると思います。
具体的には副業のところには役に立ちますが、
会社のお仕事では半分しか効果を出せません。」

それはどういうことですか?


「本講座で取り扱うマインドの
書き換え方法は影響が大きいです。」

「自分を縛り付けていたマインドブロックが外れると、
自分の心からの望みが出てきます。

「その結果、会社員としての人生に疑問を
持つことがあるからです。」


そんな話をしながら、私はこの8ヶ月間の
講座に参加したいと思いました。


でも、講座費用は100万円を超えています。
ここまで大きな自己投資はしたことが有りませんでした。


もし上手く行かなかったらどうしよう?
という思いもありました。


でも、「この人は本物だ」という感覚が勝りました。
お金を払って、飛び込んでみることにしたのです。


講座が始まって2ヶ月後、
私は自分でも認識していなかった
「べき思考」が自分の中に見つけました。


それは「現状に満足しないといけない」というものでした。


その価値観が「今より、更に良い未来を望んではいけない」と
無意識にブレーキを掛けていたのです。


この価値観が理由で、
今まで長期目標を立てることが出来ませんでした。


「5年後、10年後」にどうなりたい?と
聞かれても、自分がちゃんとワクワクするような
将来の目標をイメージすることができませんでした。


さあ、いよいよこの価値観を書き換える
ワークをする講座の日がやってきます。


記憶を完全に書き換えることで、
価値観を変えるという方法自体、


「そんな1日で価値観が
変わることなんてあるのか?」


と半信半疑でしたが、
やってみました。


結果、ちゃんと変わりました。


「現状に感謝しつつも、もっともっと豊かになっていい」という
許可を自分に出せるようになりました。


そこからです。
私が本当に実現したい人生を想像できるようになったり、
幸せに向かっていくことを躊躇しなくなったのは。


そして子供に対して怒りのままに感情をぶつける、
ということも無くなりました。

それからは子供が私に対して怯えるような
評定をすることも無くなりました。


「なーんだ、そんな小さなことか。」と思われるかもしれません。


でもこれは子供たちが将来、
「自分は生きているだけで価値がある」と
思えるような人生になるのか、


はたまた、
「自分は価値がない人間なんだ」と
思い続ける人生になるのかの
確かな分岐点になったと感じています。


その後も紆余曲折はありつつ、
講座を受けた9ヶ月後には、退職願を出すことになります。


独立起業を果たした今、

目標に向かうこと、
チャレンジに出会うこと、
日々成長していくこと。


これらのことを楽しみながら毎日を過ごせるようになっています。
本当に幸せだと感じてきます。


だからこそ、この幸せを多くの人に届けたいと願っています。

あらためて、コーチングのコンセプトおさらい

私のコーチングでは、

本当の意味で豊かな人生を送っていために必要な、

  • 人生のあらゆる面で障害となる
    「べき思考」を取り除く。

  • 「べき思考」を取り除くことで初めて
    心から湧き出てくる真の望みを実現していく

  • 人の幸福度に一番影響のある、
    最も近しい人=家族との関係を豊かにし続ける


という考え方をベースに取り組んで頂くと、
価値を実感していただきやすいのではないかと思います。

お知らせ


知らず知らずのうちに行動パターンを
コントロールしている思い込みを発見、解除することで
クライアントさんがこのような成果を出されています。

  • 転職して年収200万円アップした30代男性の会社員

  • 未経験から4ヶ月で飲食店出店した60代女性の介護士

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  • 月収0円→月収100万円になった40代女性のコンサルタント

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