「わかりやすさ」の追求はどこまで必要なのか?

前回、情報発信には必ずメッセージが込められていると書いた。ただ、そのメッセージがしっかり受け止められるかは別問題である。

メッセージは誤読されたり、意図していない人に届いたりして、物議をかもすし、議論を引き起こす(意図的に誤読させるケースもあるだろうが複雑になるのでここでは置いておく)。

もちろん、それは発信側にも問題があるかもしれないが、今の時代はそうとも言い切れない。

5.6年前に有名な経営者同士の対談に立ち会った。ボケーっと聞いていたので内容はあまり覚えていないのだが、ひとりが「日本人の半数以上は文章が読めない」と語ったのが印象的だった。その方は情報発信にSNSを使っていたのだが、「よく難癖をつけられる」と愚痴っていた。対談後に彼のSNSを拝見すると、表現はきついが、ロジックがおかしいわけでも内容が支離滅裂なわけでもなかった。

旧Twitterのように文字数が制限されれば、誤解や誤配は生みやすい。

だが、例えば、発信者が有名人であれば、その人の属性を少し考えれば、「褒めているがこれは強烈な皮肉だな」と理解できる。属性がわからなくても、過去のツイートを2,3読めば、文脈(コンテキスト)から文意は理解できる。

でも、それは文章を読める人の理屈なのだ。

コンテンツを文字通り読めるのとコンテキストを読めるかは別の問題だ。平易な文面であっても字面が読めたところで内容が理解できるとは限らないのだ。そして、ネットの普及でそうした文章を読めない人たちの声がデカくなっているというのがその経営者の嘆きだった。

確かに「そんな意図でいっていない、ちゃんと読め」といったところで、半数以上が文意を読めないとしたら、「わかりにくい文章を書くお前が悪い」となりかねないし、実際今はそうなりつつある。

そうなると発信者は懇切丁寧に伝えるしかない。カリスマミュージシャンでもなければ「いいたいことわかれよ」と思うのは傲慢な時代なのかもしれない。

でも、どうだろうか。「わからない」、「わからない」の声にこたえていたら、PR記事に「PR」と記さないといけないように、皮肉たっぷりの記事には「これは皮肉です」といずれ書かざるをえなくなるではないか。それこそ、なんという皮肉だろうか。

丁寧さは必要なときもあれば、蛇足になるときもある。それは他の商品やサービスならば当たり前に理解できるのだが、文章に限ってはなかなかそう理解されない。

ネットはマニアックなモノやコトでもそれを欲しているどこかに届けることができる便利な道具である。こだわりにこだわりを重ねた数万円の爪切りを零細町工場がつくっても、うまく顧客をみつけて採算があうのである。だが、無料で開示されているネット上のコンテンツの場合、どこかに届ける際に、意図しないところにも届いてしまい、誤解を生みだす。

最後に身近な例をひとつ。僕自身、このnoteは個人事業主が仕事へのスタンスを開示できればと思って書いていることは前に書いた。つまり、読者は僕の「横」ではなく「縦」を想定している。既存取引先や潜在顧客となる編集者などのクライアントだ。

 だが、今のところ実際、読んでくれているのはライターやライター志望者が多そうだ。

 そうなると何だか申し訳なくなってくるのだ。

「もしかすると、何か役に立つかも」と考えて読んでくれているかもしれないが、たぶんわかりやすい形では役に立たないからだ。それは僕がライターの読み手をあまり意識していないからだし、そもそも、僕がこの原稿を書き始めたのは現実逃避がきっかけだからだ。

実は、年明けから書かなければいけない原稿がたまっているのだが、やる気が全く起きず、「せめて文書を書こう」とnoteを始めたのだ(昨年まではやる気がない時はアジアの路上マッサージの動画か博多の屋台の開店準備の動画をYouTube見ていたのだがさすがにこの習慣はマズいと改めたかった)。

ちなみに、noteをこの7日で4回も更新している。本稿が5回目である。もう現実世界からメタバースに突入しそうな勢いで原稿から逃避している。帰ってこられないかもしれない。

本来はこんなことを書かない方がいいのだが、メッセージの誤配という話の流れ上、お伝えした。とはいえ、せっかく始めたので今年は忙しくても週1くらいは続けていきたい。自分の考えていることの整理に役立つし、誤配の積み重ねで、もしかするとみなさんの仕事にメチャクチャ役立つかもしれない。
 
それでは、また来週の水曜日にでもお会いしましょう。ごきげんよう。

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