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違和感を対比する

それが「異常な行動だと思える環境」にあるかどうかで、様々な問題を指摘したり通報したり相談することが機能しやすくなるかもしれない。
そもそも置かれた環境が特殊だと、それだけで当たり前にできるはずのことすら、やるためのハードルが上がってしまうものかもしれないな、と感じます。

映画の業界内にはたくさん問題が長年堆積しているようで、今こそと声を上げるニュースを見聞きして、その世界とは縁遠い自分が想像した中で感じたことを書いています。
たまたまと言うには収まりの悪いものですが、自分の仕事場のすぐ近くでハラスメント問題が起きて、その経緯を目の当たりにした直後にそれらのニュース記事などを読んで、ザラッとしたものを感じたからです。

例えば任侠映画のような世界に生きていたら、殴ったり抗争したりすることが日々にあり得るかもしれなくて、兄貴が殴ることは普通のことかもしれません。
でも、そんな毎日を過ごしている人はまずいないだろうし、そもそもフィクションの世界です(それがリアルな時期や場所はあったかもしれないけれど)。

何が日常で、何が非日常なのか。
それがわかりやすく見えるから、変なことをしたりされたりしたら、すぐに気づけるのだとしたら。

きっと撮影現場は、私が生きる会社人としての生活と比べたらたくさんの非日常にあふれているだろうと思います。

明け方から真夜中まで、求めるシーンのためには1日24時間の区切りとはズレる生活。
窓のない建物の中で、自分の腕時計が示す時間とは違う時間を生きようとしたり、その空間を成立させるために働いたり。

そんな数秒の想像をしただけで、身体の感覚を保つのはちょっぴり苦しくなりそうな気がしてしまう。
ニュートラルを保つことが容易ではなくて、保とうとすることがとても重要になるというか。
むしろこの感覚に慣れ親しむことができないと、居られない世界なのかな、とも考えてしまう。

この世界に存在しないSF的な世界を創造することもあるし、破壊され尽くした街中に立ち尽くすこともあるだろうし、とにかく私たちが非日常だなと思う世界を描こうとする空間がざらにあるはずで、そんな場において、常ならざるものが混じることの違和感への手触りを思うと……

あらゆるハラスメント的な言動を容認する意思はみじんもありません。
それでも違和感に気づくことや、気づいたときに声を上げる難しさは、私の日常に比べたら難しいのかもしれないなと思いました。

むずかしいから、しかたない。
そんな話ではなくて。

感覚がズレてしまう人がいて、そんな人が当たり前にいると、どちらがズレているのか、わからなくなってしまうことは私の日々にも起こります。
そうした感覚のズレが起こりやすいであろう環境の中にいて、異常さに声を上げることがどれほど簡単ではなかったか、ということにも思いを馳せる必要はあるのかなと思ったのです。

黙認してきた人が悪いとか、昔はそれが当たり前でもアップデートされていないからだとか、自分の日常と対比して意見を言う人もいるし、今こそとこの空気にのって発言をする人も見ました。

だけどきっと、声を上げることがなくても、正しくあろう優しくあろうとしている人はたくさんいて、上手にニュートラルを保とうとしてこなければとっくに壊れていたかもしれなくて。
そんな人たちに、やわらかく寄り添う空気もあったらいいのになと思いました。

加害者を徹底的にこらしめてやる!と息巻く人がいるほどに、その周囲がちがう息苦しさを感じることがあるように。
罪を認めさせることは、生易しいものではないことを知ったけれど、だからといってこのままでいいはずもなく。

加害者を甘やかすのでも許すのでもなく、なるべく静かに始末できたらいいのになと思います。

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